八 角 形 に ゅ ー す

2000年12月10日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

キリストの誕生と私の人生の旅路・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・主任司祭 トーマス・テハン

第1部・新しい世紀に向かって

 新世紀を迎える・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・教会委員長 牧野進一

 2000年のクリスマス・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宣教部 兼子盾夫

 これからの典礼・(顔の見える)ミサ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・典礼部 辻垣正彦

 これまでの→これからの典礼部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・典礼部 大野龍子

 新世紀に向かって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中高生リーダー 石岡信吾

 かがやくために燃えよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総務部 高柳栄一

 感謝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・国際部 リディア・米山

 新世紀に向けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福祉部 新村 満

 21世紀の教会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・事務局 川辺克郎

第2部・クリスマスの喜び

 キリストに結ばれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・聖母訪問会 シスター野口百代

 私の受洗・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 片桐靖伸

 クリスマスによせて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・キリスト教講座受講者 後藤千冬

 里山に時は流れて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 平野 勝

 待つことは祈り−待降節に寄せて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭地区 池田 孝

 エルダーズの会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 渡辺義夫

 サンパギータを子供達に贈る会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 海老原美子

 クリスマスの献げもの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 塚田直子

 21世紀に向かって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 本多正昭

 ちゃんこ鍋とNGO・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 上條 俊

第3部・八角形にゅーす

 11月教会委員会報告

 障害をもつ者からの提言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 唐木邦子

 ルカ福音書を祈るシリーズ(6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・M・ハンラティ

 信徒宣教者としての信仰・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭地区 大田咲子

 葬儀を考える会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 佐々木美奈子

 地区割り見直し検討について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 小野精司

 鵠沼ブロック集会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 小藤 晃

 壮年部旅行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 高田龍彦

 第9回「湘南短期キリスト教セミナ−」報告にかえて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・実行副委員長 兼子盾夫

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キリストの誕生と私の人生の旅路
主任司祭 トーマス・テハン

イエス・キリストの誕生日おめでとうございます。2000年前、イエス・キリストは貧しい状況の中でお生まれになりました。長い年月旧約の人々は救い主の誕生を待ち望んでいました。時が満ち幼な児イエスが誕生しましたが、皆忙しく、喜んで迎えたのはわずかな人たちでした。

2000年を経た今はどうでしたでしょう。クリスマスに初めて教会に来る人を大いに歓迎いたしましょう。なぜなら、私たちはクリスマスの物語に慣れてしまい、例年通りに祝おうと思っていると思います。そうすれば今までのクリスマスを懐かしく思い出すだけになってしまうでしょう。この2000年のクリスマスが、神の訪れの時であることに気ずかないかもしれません。初めて教会に来られる方は、一般社会のイメージしか持たず、教会のイメージを持っていないかもしれませんが、彼らの方が私たちより心が開かれているかもしれません。神の訪れのことと、私たちの霊的な人生の旅路とは深い関係があると思います。忙しい毎日を過ごしている私たちは、過去のことか未来のことに捕らわれていて、今の瞬間を生きていない状態ではないでしょうか。幻の中で生きていると欲望が大きく育ちやすくなります。神の訪れにより、神が、私たちに幻の中の生活ではなく、現実に戻り、今の瞬間を大切にするよう呼びかけておられます。心の静けさは、神の訪れの準備として大切です。静けさの中で一つになり心を開くことは容易です。そして、教会に集っている私たちは、他の時よりもクリスマスの時の方が一番よいと思います。蝋燭の光のように、神の訪れにより、私たちの心のやみである所、すなわち過去に受けた傷や、まだ実際に受けていないこと、恐れていることなどを照らしていただき、すべてよしとしていただきましょう。

神の訪れは私たちの人生の旅路の出発点です。その道を歩めば歩むほど、自分自身の存在と神の存在は別だと気付き淋しくなります。その淋しさを乗り越えるため自我を通して神と一つになります。この神との一致は人間の本当の幸せだと思います。自分自身の存在を喜ぶ人になり、どんなことがあってもかまいません、今の瞬間を精一杯生きている人になりましょう。神の訪れにより、キリストが中心となり、キリストの力により、聖霊に満たされ、すべての人に神の平和と光と祝福がありますように祈ります。喜びあふれるキリストの2000年目の誕生日をご一緒に祝いましょう。



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第1部・新しい世紀に向かって

新世紀を迎える
教会委員長 牧野進一

たいへん早いもので、大聖年も残すところあとわずかになりました。そして、いよいよ21世紀を迎えることになります。思えばたいへん有意義なときにわれわれは生命のお恵みを受けていると思います。

2000年の大聖年には、教皇様が歴史的なイスラエル聖地訪問もされました。日本でも大聖年の意向を持って各地での祈りが進められてきました。

私は個人的には、主の祈りがわかりやすくしかも聖公会と合意の共通祈祷文として制定され、変わった点が強く印象に残ります。「---私の罪を許してください。私も人を許します。---」というところは、今までの主の祈りでの表現と逆になりましたが、まさにこれは私たちにふさわしくなったと思います。

さて、これからの世紀には、何が待ち受けているのでしょうか?残念ながら、われわれには知るもありませんが、すべてについて、神にすべてを託していきたいと思います。

しかしながら、人間的興味で考えてみてこの想像される次の世紀での動きの大きさはいかばかりかと思います。

19世紀から20世紀へは、明治時代に移行しました。それからの百年には、人々を取り巻く環境、考え方等において、古くからの日本特有の『良さ』が失われ、近代的への展開にともなって、多くが変わってきました。近代に生きる人は変わったのだと思います。その中で、科学の発展には目を見張るものがあります。アメリカのワシントンDCにあるスミソニアン博物館群では、18から19世紀の産業機器の変化を展示していますが、これを見ているとまさに隔世の感です。本当に大きな変化があったなと実感されると思います。

話は変わって、今から2000年前、人々は「救い」を熱望しておりました。人々は喜びながら全生活をともにし、ともに祈り、ともに励まし、ともに赦し、ともに苦楽を分かち合っておりました。一つになっていたのです。この初代教会の霊性を見習い、新しい千年紀の幕開けを迎える今、もう一度キリストの原点に戻ってすべてを見直す必要があるように思います。

この大聖年の一年、主への回帰を目指して、藤沢教会でも、皆様とともに、祈り、研修、行事などを通して有意義に過ごしてまいりました。

「私の名によって二,三人が集まるところには、私もまたそこにいる(マテオ18-20)」「みながひとつになるように。(ヨハネ17-21)」キリストの言葉は普遍です。信仰、希望、愛をもって、新しい世紀を迎えたいと思います。



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2000年のクリスマス
日本人はキリスト教になにをもたらすことが出来るのか
宣教部 兼子盾夫

2000年前のパレスチナに主イエスがお生まれになった。ハレルヤ・コーラスの歌詞のごとく、それは主の中の主、王中の王の誕生であった。実際のイエス降誕の有り様は、降誕神話に描かれる如き厩の中ではなかったかも知れないが、ローマとユダヤ支配層の二重の搾取・抑圧に喘ぐ、ユダヤ人庶民の貧しい暮しの中だったに違いない。未曾有の繁栄を誇るローマ帝国の中でも最も貧しい、最も小さな民の中から世の救主が誕生された。それは歴史の逆説、神秘以外のなにものでもない。

逆説的な歴史の展開はさらに続く。パウロがあれほど神経を刷り減らしたエルサレム教会との関係も、エルサレムそのものの陥落(紀元70年)によって異邦人宣教への道だけが残される。既にローマ帝国内の各家庭の台所から侵入していたユダヤ教のチャンネルにより、キリスト教は広大な帝国の隅々に迄浸透していく。しかし帝国を蛮族の侵入から防ぐローマの兵士をキリスト教徒から選ばざるをえなくなった時には、ローマの崩壊はまじかに迫り、やがて中世のヨーロッパへとキリスト教は受け継がれていく。学生時代に森有正氏の対談などを読んだときに、フランスのキリスト教もそんな状態になっているのかとビックリしたことがある。いま地球上の人口動態を見ていると、遠からずしてキリスト教はヨーロッパ大陸以外の地に重心を移さざるを得ない。しかし昨年のアジア特別シノドスとそれに対するバチカンの対応をみていても、アジアの教会は内外に今後も相当苦しい展開を余儀なくされるだろう。でも心配は無用。長島ジャイアンツではないが、キリスト教会は永遠に不滅であるから。

最後に冒頭の日本人(日本文化)のキリスト教への寄与の件だが、私はいつも伝統のなかに答えがあると思う。伝統的文化と言えば、まず茶道・和歌・能のことを思う。つまりその中の仏教文化のことだ。大拙を読まずとも、それらの文化のなかに禅や浄土系宗教の影響を見ない訳にはいかない。禅宗や浄土系の宗教ほど近世日本人の精神的伝統に影響を与えたものはない。しかし今ここでは禅だけに限り、我々なら日常的に知っている言葉を引用する。「無一物中無尽蔵(物質的に何も持たないことのもたらす最高の精神的豊さ)」。この逆説が我々日本人の伝統の中にかつてあった。いま地球規模でのエコロジーを考えて見ると、やはりこれしかないとつくづく思う。(蛇足)パリ・コレで歌舞伎を取り入れても西欧人が驚くのは最初だけ、イッセイ・ミヤケのように必要以外のものをすべて捨てるところに真の創造的無、言わば禅の精神の具体化があるとおもうのだが如何。



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これからの典礼・(顔の見える)ミサ
典礼部 辻垣正彦

21世紀を目指す典礼とはどういうものでしょうか。これまでの千年を見直す大聖年も終わり、新たな千年に向かう一歩を踏み出します。現代文明社会は、時間を細かく刻み、50年、百年の単位で時を生きることの意味をむなしいものと感じさせています。

この時にあたって、人類の歴史を長スパンで振り返り、反省し、次の一歩を踏み出すこの時代に生きるチャンスを与えてくれた神に感謝いたします。第2バチカン公会議の教令の中で信徒の使徒職への召し出しに関する部分があります。「神の民の中に集められ、一つの頭のもとにキリストの一つのからだを構成する信徒はだれでも、生きた構成員として、教会の発展とその絶え間ない聖化のために創造主の恵みとあがない主の恩恵によって受けた自分のすべての力を用いて協力、奉仕するように招かれている」と書かれています。私達の共同体も「だれでもが神の奉仕へ招かれている」ことを実践するため、先年教会委員会規約を見直し、司祭を中心として、5つのブロックの代表、活動部の様々な代表から構成されるようになりました。この組織が未だ完全に機能している訳ではありませんが徐々に動きだしています。特に各地区を活性化することが、典礼を生きたものにする基本であるという意識が少しずつ出てきました。月1回ではありますが、地区がミサ奉仕を担当して主日のミサ奉仕を教会でするようになりました。先唱、朗読、聖体奉仕、奉納、案内、侍者と地区の信徒が自主的に受け持つミサです。

3000人以上の教会では、顔の見える関係は中々できにくいのですが、小さい地区の中では一人一人が見え易くなります。毎日の生活のエネルギー源となる典礼、悩みや苦しみ、悲しみ、喜び、怒りをお互いに分かち合える小集会が各ブロックで(諸外国の方々も共に)持たれることが出来たら最高と考えます。

主日のミサの聖書などを通して、前もって分かち合い、神に向かっています。これからの小教区は、家庭集会などを通して地区持ち回りで奉仕が出来たら最高と考えます。

若者のゴスペルミサも根付いてきました。侍者の子供たちもしっかりして来ました。壮年の方たちに侍者会にもっと参加していただきたい(結婚式、通夜、葬儀など奉仕していただけたらと思います)。

各々がセクショナリズムに陥らないで、老若男女の交わりの中、21世紀を迎えたらと思います。そのため各地区でのリーダー養成が特に大切ではないでしょうか。

「信徒に固有の召命は現性的な働きに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を追求することである」(教会憲章より)を目指したいものです。



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これまでの→これからの典礼部
典礼部 大野龍子

新世紀を迎えるに当たって、これまでの感謝とこれからの期待をこめて、典礼部、典礼委員のあゆみを、紹介させていただきます。

1.初めに

2.苦しみ

3.支え(個人的なことになるかも知れませんが)

4.神様の恵み!若い力

5.これまでの主な活動

6.新世紀に向けて



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新世紀に向かって
中高生リーダー 石岡信吾

クリスマスおめでとうございます。

このよき日にあたり、改めて青少年の教育について、考えてみたいと思う。1999年9月「学級崩壊」の7割は「教師の指導力不足」に原因がある、とする中間報告を国立教育研究所が発表したと友人から聞いた。つまり教師が正しく指導すれば必ず正常に機能する場所だ、という認識の上に立って行われており、「学級崩壊」を学校内的、教育的なトラブルとして位置づけようとしているように見える。果たしてそうなのだろうか。教育が成り立つためには、教育する者と教育される者とが必要である。教師に指導してもらって「学ぶ存在」あるいは「従うべき存在」が生徒であり、そしてそこには対等の関係はない。この関係が崩れているところに問題がある。いまや教育現場には自由な主体としての子供や少年(少女)しかいなくなってしまったのだ。勿論このことは重要なことで「子供の権利」や「子供の人権」を確保するためには必要欠くべからず現象である。弱者(子供)の人権は社会がサポートすべきだとも思う。と言って過度な子供の保護や権利優先は教育の立場を逆転させ、少年(少女)たちの教育力を減退、欠落させる結果となる恐れもある。従って今後は指導と被指導と言う非対称関係と人間と人間の対称関係との調和が求められることになる。このような外的環境にあるなかで、新世紀を迎える教会内での青少年教育はどんなものになるのだろうか。この問い掛けには簡単に答えることは出来ないし、答えても余り意味がない。なぜなら教育は哲学ではなくて実践、生き方であり、表現しにくいものだからである。しかしながら幸いに、藤沢カトリック教会には伝統的に青少年教育にあたり暗黙のうちに「ある姿勢」がある。

今回はそれを「文字にする」ことによって、次の世代を担うリーダーや皆さんの参考にして頂ければと思う。教育は1年から2年の単位で考えるのではなく、少なくとも10年単位の期間で考える必要がある。教育の実践にあたり大切なことは、青少年教育は継続すること。・・・リーダーや大人の都合で休まない。休みにしない。青少年教育は目線を彼等に合わせる。そして具体的方法としては、

(1)「共にいる」教育である。

成長していく青少年にとって「共にいる」ことは、大切なことこのことは、場所的にも大切であるが、心理的にもっと大切なことがある。それは、こどもを一人の人間として認めること「共にいる」といっても、注意すべきことは「ベッタリくっついた生き方」ではないということである。巧みなやり方は「つかず、離れず」その根底には相手を人格のある存在として認める態度が必要。

(2)人格を認める教育

「常に心や目をかけているが、いつもは口や手を出さない」彼等の動きはしっかりと把握しながら、経験者である大人の口と手が必要なときに援助を惜しまない。

(3)宗教心を通して導く教育

「神は君を見ている親の心で」

わたしたちの神が、いつも私たちと共にいてくださる。そのように私たちも子供と共にいる。私たちが神の心をもって子供たちとともにいる。

(4)可能性を触発する教育

思春期にある青少年は、より善いものを求めようとする気持ちが十分にあるが、うまく表現できない。大人の言わんとすることは、分かっているつもりでも、それを素直に表わすことに抵抗を感じる。非常に不器用な生き方しかできない。青少年のこのような状態から新しい可能性を引き出し、ことば少なに納得させることが可能である。

実はこのようにまとめている時に、中高生会リーダー佐藤さんより一冊の本をいただいた。何とそのタイトル「共にいる教育」−−アッシステンツア(ドン・ボスコ社)であった。内容も要点も、その表現も全くその通り、何だか頂いた本のダイジェスト版のようになってしまった。時代は変わってもその本質はかわらないのだろうか?ともあれ最後に「共にいる教育」の本の中で、ドン・ボスコが特に強調している、「愛することだけでは不十分です。子供たちが“自分達は愛されているのだ”と知る必要があります」と言う言葉を結びとする。

参考・引用文献「共にいる教育」岡道信編著(ドン・ボスコ社)



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かがやくために燃えよう
−労働は祈り−
総務部 高柳栄一

山本有三氏の文章に

「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、本当に生かせなかったら、人間に生まれてきたかいがないじゃないか」

とあり、稿を改めて

「たいまつもローソクも灯台も、輝くために燃えなければ使命を失う・・・」

と言って、これから体ごとぶつかって羽ばたこうとしている少年少女にエールを送っています。

この教会で、この仕事をしよう!

これが当教会で“やってみよう”というすべてのワーキングの原点です。

しかも、ワーキングの役割分担は色々ありますが、教会委員長をはじめとして、小さな子供たちを含め、この教会に属する信徒全員が総務部員です。そのくらい、ボランタリイーに徹した、あなた個人の力が、どうしても必要です。

だけど「ボランティア!」といって構えないでください。考える、知る、伝える、ことからボランティアは始まるのです。

10数年前、壮年部の中で、教会の力仕事に毎週汗を流していた人々が“労働は祈りだ”そしてその思想背景を肉付けして、理念をふえんし、LEOというグループを組織し、自ら率先して、3K(キツイ、キタナイ、キケン)の仕事を請負い、労働を「喜び!」に変換しました。また庭木、植栽に関する教会敷地内の年間植物管理要綱をさだめ、誰に頼ることなく、独りで、毎日、黙々と修道者のように庭の“さきもり役”を務めている人もいます。彼らは自らの「分」をわきまえており、多言を拒否していますが、我々と同じボランティアの一員なのです。ただ一見、プロに近いボランティアに見えますが、彼らにとっては積年つちかった“経験”の一つが今の仕事を補っているに過ぎないのです。近い将来、もっと別な一面を教会の皆さんの前に提示する筈です。ご期待ください。

ボランティアは、いつも次のことを考え、そして次の人に伝えます。そうです。次の人は、その次の人のことを考えて、沢山のことを伝えるのです。行動したり活動することも重要ですが、知る、考える、伝えることの機微に長じるのが先のように思えます。

手を借りたいのでは?やさしさが欲しいのでは?あれは何かの信号ではないか?と思うことが一日に何度もありますが、どう対処していますか。気遣い、思いやりの“こころ”よりもまず勇気です。

教会は祈りの場、集合離散(カタイか?)の場ともいわれ、融和、やすらぎ、出会い、平和、恵み、友愛、もてなしなどの場ですが、その前に「自分の家」です。雨も風もあり、汚れるし、メンテナンスも必要です。聖堂、カトリックセンター、司祭館、みんな毎日使いますが、お掃除は使った人々や、わたしたちの担当です。神父様、教会のスタッフ、教会委員の方々は掃除夫や管理人ではなく、それぞれ毎日重要な仕事をしておられますので、これらを直接担当することは出来ません。藤沢教会は“行動”する教会です。祈り、労働し、御父のことを勉強するという三つ巴を以て、社会を浄化して行くというわたしたちの心がまえは変わりません。人知れずキラリと光って生きる術として、しっかりと自己を見つめ(観想)ながら、手ごたえのある日々を送りたいものです。



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感謝
国際部 リディア・米山

神様は私たち皆が、平和、一致、兄弟愛の内に、生活するよう世界を作られました。しかし、私たちを救う為に御子イエスをこの世に遣わして下さったにも拘らず、世界では未だに戦争、飢餓、苦しみがあります。

私たちはキリストが1つのパンとなられ、その御体と御血である1つのパンと1杯のぶどう酒を皆で分かち合う事を知っています。この事は私たち皆が1つの家族であり、キリストの内に兄弟姉妹である事を意味していると思います。

この10年間、私はいろいろなボランティア活動を支えて下さる素晴らしい方々に出会いました。彼らは、私たちを外国人としてあるがままに受け入れ、私たちを彼らの家族の1員のように扱い、また、名前を知らない方でさえ笑いかけて「こんにちは」と挨拶して下さいました。このようにして頂いた時の私たちの喜びは皆様の想像以上でしょう。いろいろな苦労の中にあって、「こんにちは」と声をかけられた時の喜びは、何にも勝るほど嬉しいものでした。

しかし、それとは反対に、私たちが挨拶をしても何の反応も示さない方もいらっしゃいます。多分、言葉の問題か、外国人が日本で起こす問題をテレビや新聞で見たからでしょうか。私はそのような方々に本当の理由を伺いたいと思います。私たちは本当に兄弟でしょうか。

私たちの多くは、1部の外国人が住居や仕事を与えられている国、日本でこのような問題を起こす事に対して、大変残念に思っています。しかし、別の面から見ると、差別される事がどんなに辛い事か、同じ仕事をしながら給料に差があることがどんなに大変な事か、病気になって医師の言うことが理解できない事がどんなに困る事か、等など、言い訳がましいかもしれませんが、私たち外国人は誰でもこのような事を、いつでも、どこでも経験しています。言うまでもなく、実際に生活している国の伝統や習慣を尊重し、上手く仲良く合わせていく責任と義務は持つべきです。しかし、私たち自身のアイデンテティや伝統を守る事も大切です。

1人1人の人間、そして1つ1つの国はそれぞれ異なります。そして、その組織には、非常に沢山の物事があります。中には、たとえ間違っていても変えられない事もあります。変えてみようと挑む時には、自分自身を変えてみましょう。他人を変えようと思ってはいけません。私たちが他人を批判するのを止める時、他人の喜びを妬まず共に喜ぶ時、兄弟の苦しみに力を貸す時、他人の為に祈る時、など。

新世紀に向かって、自分の心を鏡に映し出しよく見つめ、自分が変えなければならないものを探してみませんか。

私は皆様とお話して分かち合いたい事が沢山あります。これまで私たちを支えて下さった皆様1人1人に心から御礼申し上げたいと思います。又、もし何らかの形で、皆様を傷つけたり、失礼がありましたらどうぞお許しください。

最後に情勢が悪くなっている私たちの国、ペルーのためにどうぞお祈りください。



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新世紀に向けて
福祉部 新村 満

教皇様は紀元2000年の大聖年の準備の書簡を、「第3の千年紀の到来」と名付けています。新世紀とは、人類が3回目に迎えるこれからの千年なのです。

新世紀の到来に当たって考える機会を与えて下さったことを感謝して、千年とは言わず、これからの福祉活動について思っていることの一端を述べます。

日本が高齢社会に急速に進んでいることはすでに知らされています。人口問題の研究機関の見通しでは、20年後の2020年には所帯主が65歳以上の世帯は全世帯の約35%と言われています。たとえば、10軒の所帯が住んでいる地域やアパート・マンションに三軒か四軒かは65歳以上の所帯があることです。また、全所帯の7%は75歳以上の独り暮し所帯との見通しもあります。多くの方々が高齢家族のケアをされ問題に直面しているのが現実です。高齢者の福祉には、医療とのつながりの他に、毎日の生活(食事、洗濯、掃除・・・)、生きがい問題や個人によるニーズの多様性への配慮が必要です。そのために、地域と密着した援助と公共のサービスの有効な活用を視野に入れての活動が期待されます。

障害をもつ人々との協働があります。“教会が「神の国」建設に、より寄与するために”〜障害をもつ者からの提言〜(カ障連)の中で、『障害をもつ私達は、(省略)「障害そのもの」のハンディキャップの上に、「機会均等」などというものが考慮されない社会から来るハンディキャップが加わり、二重の重荷を担わなければなりません。これは実際に生活してゆくなかでとても苦しいことです』と述べられています。

「障害そのもの」の重荷の軽減や「社会から」の重荷の解消のために、私たちはもっともっとお互いに話し、聴き、伝え、理解しあい、共に動くことが必要です。さらに教会の中で一緒になって働くことがあってよいのではないでしょうか。

私たちはそれぞれの生活の場、学びの場、働く場で自分の使命を果たすことです。特に、これからは自分の住んでいる地域での活動が要請されます。福祉には行政の施策がおおいに関係しています。行政の方向は中央から地方自治体に、自治体は地域に下ろしてきます。

ホームレス活動は諸キリスト教会というつながりで実施されていますが、これからの活動のあり方として他の領域でも展開できたらと思います。

教会は信徒の福祉活動を支える柱であり港です。祈りと秘跡によって信徒は力づけられ、自分の役割を務めることができるのです。ごミサの終わりに、司祭が「行きましょう。主の平和のうちに」と唱えます。会衆は、「神に感謝」と応えます。さて、あなたは、どこに行きますか?

注:カ障連=カトリック障害者連絡協議会



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21世紀の教会
事務局 川辺克郎

20世紀も残すところ後わずかとなってしまいました。今まで21世紀の教会などというテーマで書くと、何か遠い未来のことのようでしたが、それが後数日で現実のものとなろうとしています。

新しい世紀の教会について書いてくださいと頼まれた時、夢と希望と期待を持って語れたらいいなと思って考えました。でも、夢と希望を実現させるには今の現実を押さえておく必要もあると思います。そこでちょっと厳しい現実にも目を向けてみましょう。

司祭召命の減少が言われて久しいのですが実際はどの程度なのでしょうか?昨年、カトリック新聞に日本で働く司祭の年齢別構成が載っていました。それを基に、新たな司祭召命が増えも減りもしない前提で単純計算すると、働ける司祭の数は10年後には3〜4割減、20年後には半減するという結果になります。簡単に言えば20年後には半分の教会は司祭不在になると言うことです。

それでは、シスターたちはどうでしょうか。多くの修道会でも召命は減り続けています。司祭よりももっと深刻なところも多くあります。日本での福音宣教はシスターたちが運営するミッションスクールや様々な施設に負うところが大きかったと思います。それらの場からシスターたちの姿が消え始めています。経営権を手放してしまった施設も目立ちはじめています。20年後にはどれだけのミッションスクールがミッションスクールとして残っているでしょうか。

日曜日の教会に目を向ければ、そこに人口の比率と同じくらいの若い人を見かけられるところは皆無なのではないでしょうか。これは日本だけの出来事ではありません。アメリカでも、ヨーロッパでも起こっている出来事なのです。

これはわたしたちの現実です。わたしたちの21世紀の教会はここからスタートするのです。この現実の中で、わたしたちはどうしていけばよいのでしょうか。

多くの人々が祈りと働きを持ってこの現状を打破しようとしてきました。司祭や修道者の召命のために様々な試みが行われました。若者を教会に連れ戻そうと様々な企画が立てられました。でも、まだ奇跡が起こる兆しはあまり見えてきません。わたしは、多分これからもこの努力が報われることはないかもしれないと思っています。なぜなら、今行われている努力の多くは、今での教会の姿の中に、かつての栄光を復興させようとしているものが多いように見られるからです。

先日聖書の勉強会でマタイ福音書の最初の系図の所を学びました。あのただただ退屈に見えた系図の中に、神が人類の救いをどの様に準備してこられたか、そのメッセージが込められていると言うことでした。神は人間の強さも弱さも、よい人も罪人もそのすべてを用いて、救いの歴史を組み立ててこられました。そこには、栄光の時も没落の時もあり、偉大な人物も無名の人も等しく用いられました。これは今のわたしたちに大きなヒントになると思います。今の現実がどんなに悲観的なものであろうとも、その現実でさえ、神の救いの歴史に欠くことの出来ない1ページとして用いられ、そこから神の国が実現していくのですから。

はっきりとは分かりませんが、今の現実はわたしたちの教会に新たな時代へ向けて今までの教会像から脱皮して、新たな姿へ変容させようとする時のしるしではないのかとわたしには思えるのです。今までの教会像にとらわれることなく、わたしたち一人ひとりが神の国の完成を担うものとして、聖霊の導きによって現実を識別しながら歩むとき、夢と希望に満ちた21世紀の教会の姿が見えてくるのではないでしょうか。



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