八 角 形 に ゅ ー す

2002年10月6日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

赦 し 合 い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ベイル神父

教会委員会報告

バザーは10月27日です

夏の黙想の実り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ハンラティ神父

アイルランド南部巡礼の旅に感謝して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 大野

ボーイスカウト夏のキャンプ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢16団 隊長 清水

敬老の日に出席して思うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 富安

敬老会を有り難うございました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 平野

サンパギータを子供達に贈る会からのご報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 海老原

フィリピンの共同体を支えてくださっている皆さま・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・聖母訪問会 総長 渡辺

キジト神父さまから

皆さまのティールームよりのご報告

「湘南ライフサポート・きずな」その後の歩み

10月の主な行事

<葬儀を考える会 Q&A>

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赦 し 合 い
ベイル神父

 先月の福音朗読では、何回か赦しのテーマが取り上げられていましたので、今月は、赦しに関することを少し書きたいと思います。

 ロバート・シュレイター師が書かれた和解の本の中で、彼は「名誉」または「面目を保つ」ということを重んじる社会では、決して赦しを要さないと述べています。その様な環境の中で、赦すということは、無力さとか、家族やグループとの結束を裏切ることの印であると考えられています。決して赦さないという決意は一部の権力社会の特別な形状といえるでしょう。「私は、そのことに対して彼を許すことは決して出来ない」と言うことは、両者の関係を逆転させ、悪事を働いたものを犠牲者にするように、力を奪われた側が権力の体制を保とうとすることです。悪事を働いた人を許すことは、仲間を傷つけたり恥をかかせることになり、悪事を働いた人を支配することが出来なくなる事を認めることになってしまうという考え方です。

 イエスの神の赦しについての説教によると、この考え方に対しては批判的でした。本当に力ある者は他人を束縛するようなことはしません。赦すことをわきまえています。神は赦しを与える時に、正に神の権威を明示されます。ですからイエスは、弟子達に赦すことを実践するよう熱心に説かれました。赦しは神の力の中で、最も偉大な印です。さらに、もし赦しがなければ、神と人間、または人間同志の関り合いの中で何の変化もないでしょう。何か新しいことも、より良くなることも起こり得ません。神の国は改心することによって築かれるのですから、赦すことが必要です。イエスは、最後の預言者として神の赦しを取り次ぎ、人を赦し、そして弟子達の上に赦しの権威を下されました。

 一部の文化では、赦すことは無力の印だと考えられているかもしれません。しかし、イエスが説かれた赦しは愛から生じる赦しでした。もし人を愛するなら、自分の弱さを自由に正直に見せます。愛を伴う弱さと無力さの違いは、前者はどんなことでも自由に選ぶことが出来、一方、後者は望ましくない力不足です。愛を伴う弱さは、愛の内に自分自身を与えることが土台になっている信頼の顕示です。

 赦す力は害を与える力とは異なります。赦す力は究極的には神から与えられるものです。それは十字架の力であり、愛を伴う弱さから生じる力でもあります。害を与える力は、威圧したり、支配する力から生じます。ですから、誰かに赦すことを強要しようとする事は、その点で非常に矛盾する行為です。

 キリスト教徒にとって人を赦す心は、神の愛と聖なる力が働いた時に、神から与えられるものと考えられています。神の恵みによって、悪事を働いた人を新しく造られた者にする時に、赦すことを決意する心と、犠牲者を回復させる力が与えられます。赦しによって犠牲者は新しく造られた者になることを受け入れ、これまでと違った未来の姿を考えるようになります。



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教会委員会報告
(9月21日)

(1) 平和旬間行事の報告

参加人数の把握は難しかったが(特に「交わりの部」)、第五地区各教会の協力を得て、円滑に終了することが出来た。 (参加者は500人前後) 準備、運営など各教会の老若男女、又、受洗間もない方、受洗前の方々も自主的にお手伝いに加わってくださり、小教区を超えて良い交わりの時がもてた。 今まで、「平和旬間」のことを知らない方が多かったが、認識が深まったように思う。 来年からもう少し関心を持って頂くようPRを考えたい。 他教会の方々から、藤沢教会の組織を上げての準備に感謝された。 会計面でも経費削減に努め、教区に負担をかけずにすみ、献金などの余剰金を教区に寄付することが出来た。

(2) バザー委員会

  1. 第1目的は交わり。 収益の使い方は教会委員会に一任。

  2. ちらし、献金袋は、各家庭に配布中。 特に、普段教会に来られない方には、できるだけ手渡ししてほしい。 そこで意見が聞けた時は、各ブロック長を通して、後日委員会に報告してもらう。献金袋は地区の方に託す、事務所に持参、聖堂の献金箱に入れる、郵送、いずれも可。

  3. 作品展 : 現時点で10人の方が応募

  4. エンタテインメント : 午前中 フィリピンの方によるバンブーダンス

  5. 壮年部の協力を得て安全面を強化

  6. 日用品売り場は例年混乱するので、今年は棚の設置など工夫をする。

(3) 各ブロック・ 活動部報告

[鵠沼B]  9月13日 敬老会が行われた。 今年は参加者が100名となり、始めてお聖堂で食卓を囲みながら歓談、又、余興を楽しんだ。      ミサの準備 : 来年度からブロック主催の行事(初金、黙想会、七五三、遠足など)の中でミサが行われる時は、全て担当ブロックが主となって準備する。 

(4) 元売店活用について

7月に「元売店活用検討チーム」から「検討結果の報告」を受け、各ブロック集会で信徒の意見の集約を依頼し各ブロックで検討した結果、全ブロックとも活用することに賛成であり、今後具体的に進めることが決まった。 具体的な作業・運営方法などは検討チームに一任された。

(5) ゴミ置き場

教会入り口右手に設置。 総務部によって、一時的にコンクリートで囲み、使用後水で洗い流せるようにした。 最近、ゴミの出し方が悪くなっている。 一時的にゴミ箱を全て撤去してみたらどうかという意見も出された。

(7) マーフィ神父の金祝について

11月10日 9:30ミサ後ティーパーティ形式で行う。 

(8)「湘南ライフサポートきづな」について

川辺事務局長よりその後の活動について報告を受けた。 9月13日NPOの認可が下り、運営も順調に進んでいる。 一方、表に出ていないホームレスが如何に多いか気付いて驚いている。 今後も多方面で皆様の協力をお願いしたい。



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バザーは10月27日です
バザー委員長 安田

 いよいよバザーの開催月になりました。これまでの準備状況をお知らせしますと共に、皆様の更なるご協力をお願い申し上げます。

・ 寄付品および賛助金袋の受付

 例年の通り、食品(特にフルーツ缶詰とお米・1人1合以上をお願い)、衣料品、日用品、手芸品、ケーキなどの寄付品を出して頂くようお願い致します。詳細はパンフレットに説明してありますように、良いものを思い切って寄付して下さい。

 但し、品物は搬入期間を厳守して頂きたくお願い致します。なお、古本は今年は取り扱わないことになりましたので、持ち込みをお断り致します。

 賛助金袋は、当日以外はバザー委員か事務所に預けて下さい。日曜日は教会入り口の献金箱に入れて下さい。但し、維持費、献金と同じく利用時間内にお願い致します。

・ 会場準備《第2回売場責任者会議》

 第1回会議で提出願いました文書の確認や懸案事項などを討議・解決し、皆様の認識を揃えるために、10月6日に第2回売場責任者会議を開催します。

 それぞれの責任者になって頂いた方々には、この結果をもって、スタッフ全員への周知徹底を宜しくお願い致します。

・ スタッフ募集

 例年の通り、多数のご応募を戴きまして有り難うございます。なお、今後のご応募もお待ちします。

 これからは各売場責任者のもとで、教会各部・バザー委員と協力して準備して頂きたく宜しくお願い致します。

・ 新企画《趣味の作品展》

 多くの皆様からご応募を戴きまして有り難うございました。たくさんの皆様に見て頂き、趣味を通しての交わりを増やし深めて頂きたいと思います。買い物が終わりましたら是非お運び願います。なお、作品の売買はお互いの話し合いで成立させて、その代金の中から、なるべく多くのご寄付をお願い致します。

・ お茶(茶道)の復活

 以前行われていた野点が出来なくなっていましたが、有志の方のご協力で、和室の302号室にてお点前をして頂くことになりました。趣味の作品展と共に、お楽しみ頂き、気分転換して頂きたいと思います。

・ エンターテイメント

 国際部のご協力で、12時からバンブーダンスをやって頂くことになりました。これもお楽しみ頂くと共に、上手く出来たら拍手喝采と献金をお願いします。

 テーマ「ほほえみ溢れる助け合い・身のまわりへの想いを形に・」の通り、ほほえみ溢れる楽しいバザーをみんなで作り上げましょう。 なお、教会のインターネットホームページに、ポスターとパンフレットを掲示する予定です。近隣のお知り合いや友人にお知らせ願います。

(注)当日のミサは例年の通り、朝7時・8時、夜7時になります。



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夏の黙想の実り
ハンラティ神父

☆前置き

 7月に私は“同伴されての黙想(個人黙想)”をしました。その間、祈りにルカ9章28〜36の“御変容”を使いました。ここは私には難解で、今まで余り使わなかった箇所です。

 ところが祈り始めて間もなく、そこが私にとって、祈りの本質に関わる重要な箇所だと気が付いて驚きました。さらに私の黙想の流れにもぴったりの箇所だと分かり、私はそこに戻り続けました。私のヘルパーは、自分のためにそれを書き留めておいたらどうか、と勧めました。 

 なぜイエスは祈るために山に登っていかれたのでしょうか?”“そして、なぜこの時ペテロとヤコブとヨハネを連れていかれたのでしょうか?” と尋ねることから祈りを始めました。その答えを待ちながら、この前、そしてこの後の出来事に目を通してみました。その結果、イエスが祈られた大きな理由は、私が以前から考えていた通りだったと確認出来ました。御変容はそれを示す一つの大きな例なのだとよく分かりました。

私が考えたイエスが祈られた主な理由とは、感謝を深めること 御父からの道案内を聴くこと  その指導通りに成し遂げる力をいただくために、御自分を開くこと 御自分の周りで日々起こっていることが、これらを祈る必要をイエスに深く感じさせたのです。イエスの内には、次に書くような強い気持ちがあったと私は想像します。そしてそれが、なぜイエスは祈りたいのか?という問いに対しての私の答えです。

☆感謝

 イエスは非常に有り難く思う体験を沢山なさいました。洗礼の時に、また荒れ野においてさえも、最終的には御父との親密なつながりを感じました。御自分を通して、癒し、解放し、一つにし、慰め、貧しい人々を養う、御父の力を体験なさいました。御自分に引き寄せられて、従ってきて、御自分の使命に参加し始める人達が増えました。御自分が感じている使命の方向は間違っていない、と確信出来る沢山のことがありました。これを更にしっかり確認する必要がありました。

☆道案内

 しかしながら、御自分の感じている使命の方向に矛盾すると、思えることもありました。イスラエルの宗教の指導者達はイエスに対抗し、イエスをまさぐっていました。中央に行くこと、即ちエルサレムに行くことは、御自分の使命の求めることだと思えるのに、それは同時に死への招きでもあると思えました。それでは、御自分の使命は失敗に終わってしまうのでしょうか? イエスは道案内を必要としました。

☆心を決めるために

 信頼して御自分を開け渡し、示されることを忠実になし遂げるために、イエスは勇気と寛大さと力が欲しいのです。

☆祈りの必要

 これが、この時イエスが特に祈りに行きたい理由だと私は思います。更に、日に日に窮地に追い込まれていく中で、イエスは御自分に従う者達が、この窮地を理解して、共にしてほしい、と願われたのだと思います。重大な決断を迫られている時だからです。

☆祈りの結果

 イエスは祈りの中で、旧約聖書の救いの歴史を見ていくうちに、御自分の救いの使命をより明確に理解なさったと、私は思います。モーゼ、預言者達、苦しむしもべ等の使命の失敗の中に働かれた神様を想うと、失敗に終わりそうな御自分の使命を抱きしめることが出来る。今後も延々と続いていく御父の御計画に、盲目の信頼を寄せていけばよいのだと思える。こう考えると、たとえ死ぬことになったり、失敗に終わるとしても、信頼と希望をもって御自分を明け渡して、ゆだねていける。このようにイエスが祈りの中で、葛藤から決断へと平和のうちに移行していく時、この偉大な勇気ある決断がイエスの外見に反映して変容されたのです。ですから祈りの結果は“イエスはエルサレムに方向を定めた”ということです。

☆弟子であることの道

 イエスは弟子達の気持ちの支えと助けが本当に欲しかったのだなあ、と私はしみじみ思います。人としてイエスは他者と心を通いあわせることが必要だと感じていました。この前にイエスは一人で沢山祈られたのです。そして、今まさに重大な岐路に立っていると感じるこの時、弟子達も心を合わせて一緒に祈ってほしいのだと思います。さらに御自分のように祈ることを学んでほしい、とも思われたのだろうと私は考えます。彼らも感謝と信頼を育ててほしいのです。“傾聴すること”の必要も学んでほしいし、導かれるままにどこにでも従っていく勇気と寛大さを持ってもほしいのです。

 しかし、この事について、イエスはがっかりさせられるばかりだったと私は思います。弟子たちがイエスを支えることが出来たとは思えません。(私には、このくだりはゲッセマニでのことに重なって見えます。実際、弟子達は聖霊降臨の後まで祈ることはよく出来なかったと、私は推測します)彼らが内面的な道案内の必要を感じていたとも思えません。彼らは安全な場所に留まっていたかったのです。彼らはしぶしぶイエスに従って山を下り、これからの騒ぎの渦に、問題の渦中へと入っていきます。彼らが受け取ったメッセージは“何が起ころうとも、怖れずにイエスについていく”ということでした。

☆私自身の人生への光

 ここまでの黙想の間、私が“向こう岸に渡る”ためにイエスは御自分の舟に私を招き入れた、という想いに捕らえられていました。それと、“沖にこぎ出す”の言葉にまつわる招きは、毎年の黙想を今年もしておくという態度から私の目を覚まさせました。イエスはまさに私に“揺さぶり”をかけて私を呼ばれ、私を近づけようとなさっている!という現実に直面しました。さらに、イエスは弟子達に近づいてほしいだけでなく、人として彼らと心を通わせ合う必要を感じていらっしゃって、それは私に対しても同じなのだ!本当にそうなのだと実感して、この驚くべき促しと、取っ組み合いをすることになりました。

 ですから御変容のくだりでの黙想の次の段階は、自分の人生を、家にいた頃から始まってその時に至るまで、振り返るように導かれたのです。“向こう岸に渡る”ようにという何回もの招きを受けた結果、今日本でこうしている私の歴史を見ました。その間にはいくつかの嵐もくぐり抜けて、今私はここ、すそ野で黙想しています。文字通りイエスに導かれて祈るために“この山”に登ってきました。

☆私の死を直視する

 そこから私の祈りは色々な方向へと導かれました。その中で一つの大きな強い動きは、この時のイエスのように、自分の死について熟考させられたことでした。そして私の立てた将来の計画は、ひとりよがりの想定、勝手に思い描いた期待にすぎないと悟ったのです。

 私は自分の健康が下り坂で、出来ないことが増えていることを認めています。それでも日本の司祭としてまだ役に立っていると感じて幸せですが、あと2年余りで引退してアイルランドのコロンバン会本部に戻ると決めています。ここでしている事のいくつかを、たぶんあちらでも出来るだろうと推測しました。最近の病気で、すでにあちらで過ごし、あちらでの生活は幸せでした。現実にその時が来たらもちろん悲しく残念な気持ちは起こるでしょうが、心がよじれる程の痛みがあるだろうとは思わず、両方の世界の一番よいところが得られる引退の仕方を計画したと思っていました。

 けれども、もしかしたら目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり、動けなくなったり、ボケるかも知れない。わが身をどうすることも出来なくなり人に頼っていくのかも知れない・このような考えが起こって、私は狼狽しました。

☆天国についての新しい考え

 その時、黙想に来る直前に教区の中で起こった一つの事が思い出されました。非常に霊的で、また活動的でもあった教区の一人の信者の死に当たり、私は小さき花の聖テレジアの約束「私は地上に善をして私の天国を過ごしましょう」を思い出し、これがこの人の死についての疑問の答えであろう、と思ったことです。突然私は、この考え方は私の残りの人生を誘導してくれるものでもあると感じました。それは、イエスの御変容のようでした。

 私はこの考えを深め、私の天国の考えに組み入れたいと望みました。天国にいながら地上で善をするのに忙しい!天国でもイエスの使命に協力し続ける ・今しているように・ いや今よりももっと出来る!今は力量不足で出来きれないでいること・ おろそかにしたり、傷つけたり、避けたりしてしまった人達を助けることも出来る!こう考えていくと、私は自分の感じていた重荷から解放されました。自分の立てた計画をしてしまうまでは休めないと思い込んでいて、それは段々に大きな重圧になっていたのです。目の前に、新たに、広大な展望が開けて、これからここを探検していけばよいと分かりました。イエスの使命に参加するように招かれ、それを受け入れて久しいのですが、この道の行き着く先はここなのだと分かりました。

 この祈りの体験から得たものは大きい。私は何回でもこの箇所に戻る計画を立てています。天国についてのこの考えを自分のために深めていきたいと思っています。

 誰か一人でも、この中から何か役に立つ考えを見つけてくだされば嬉しいです。



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アイルランド南部巡礼の旅に感謝して
鵠沼2区 大野

 巡礼旅行に参加した私達は、8月1日ダブリンの南アワ−レディ・スアイランドのアワレディand 聖パトリック教会を訪れました。 説明によると、この地は十六世紀の終わりから19世紀の中頃にかけて断続的に烈しい迫害を受け、人々は自分の家の祭壇や十字架を壁に隠し、ひたすらロザリオを唱え続けたといいます。そしてミサにも与れないまま、祈りの場を、教会の前に広がる海の島に求め、島の岩場を渡りながら、時として跪き、また水に浸って、祈りに力を尽くすことで信仰を守り抜いたとのことでした。

 教会を背に白い砂地に立ちました。雲が低く風に波だつ水面が島の黒い岩肌を洗っていました。それを見つめながら当時を偲び、祈りによって深く神と結ばれて、苦難の時代を乗り越えられた方々の祈りを私もまた魂の深みで受ける思いでした。

 私達はマーフィー神父様のお導きで日々、ロザリオを唱えて旅を続けました。

 旅を終えて日々の祈りにはいった時、眼の前に開けるものがありました。それはナーバンの聖コロンバン会本部の墓地の傍らの大理石の大きな壁でした。その日の事が蘇りました。壁には亡くなられた司祭方の氏名、歿年月日、歿年齢そしてその国名が記されていました。夥しい数の記録に圧倒される思いで目を凝らすと、20代30代の若い司祭がアジアで多数亡くなられ、また世界各地で司祭方が働かれて、その地で命を落とされていた事がよく判りました。短い記録の中にお一人お一人の宣教の足跡を見る思いが胸に迫りました。

 旅の報告をした私にハンラティ神父様はおっしゃいました。「あの白い壁に書かれている先輩の方々から教えていただいた事を、私もあなた方に伝えている。だからあなた方も同じ流れの中にいる・・」と。小さな小さな砂粒のような私が神の国の建設に命を捧げられたあの司祭方と同じ流れに、皆様と共にあずからせていただいている・・、その思いを祈りに繋げながら、いただいた恵みの大きさに改めて感謝する日々です。

 旅の間、マーフィ神父様はご自分のすべてをかけて私達を守り導いてくださいました。私達は日々マーフィ神父様を通してイエズス様の愛をいただく思いでした。アイルランドの美しい自然と共にゆたかな思い出をありがとうございました。



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ボーイスカウト夏のキャンプ
藤沢16団 隊長 清水

 各隊による夏のキャンプも終わり、スカウト達はそれぞれの思い出を自分のスカウト史の一ページとしてはっきりと刻み込んできたことを思います。

 キャンプを通してスカウト達が少しでも自然の美しさ、有り難さ、またその恐ろしさを体で感じてきてくれただろうか?

 キャンプというと今や皆が楽しむ夏の代名詞のような存在となっています。

 我々カトリックスカウトはキャンプを通して、自然に触れ自然の息吹を肌で感じることにより、創造主である神との出会いを求めています。

 スカウト達が純粋にスカウトキャンプを楽しみ、豊かな自然を恵んでくださった神への感謝の気持ちと、神から授かったこの自然を大事にしていく気持ちをずっと持ち続けて行けることが出来れば良いと思っています。今年も夏のスカウトキャンプが終わって少しずつ逞しく成長していくスカウト達の姿をみることが出来ました。



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敬老の日に出席して思うこと
鵠沼2区 富安

 9月13日金曜日、教会の行事として敬老会が催された。心のこもった温かいごミサにあずかり、また、今年も「この祝福にあずかれた」と私達夫婦は涙がにじんだのでした。

 ごミサの後のパーティーでは、楽しいお食事、そして色々な余興にひとときの笑いをもち、また神父様のお話になごやかないやしを感じ本当に有意義な1日でした。

 司会の石黒様のお話の中で、私ども夫婦が結婚70年を迎えられた事を、本当におめでたく思いますと言われ、皆様の拍手に、本当に、この藤沢教会の共同体の一員であった事に、この拍手のぬくもりを、改めて新鮮に感じました。

 思えば、司会をしてくださった石黒様のご両親様共々、片瀬教会を出発点とし、藤沢の丘の上教会、そして現在の藤沢教会と五十有余年がたちました。

 私達夫婦が信者になったきっかけは、長女の死でした。湘南白百合学園の中学3年生の時、突然の盲腸の手術により、あっというまの他界でした。長女は、カトリックの教えに、マリア様に深く導かれていました。

 長女の死の直前、マリア様が見える、私は天国に行って祈っているわ、という言葉が強烈で、その一言で、当時の片瀬教会のスイニー神父様、バルブ神父様、オブラィン神父様に聖書、公教要理の勉強を指導していただきました。

 当時、湘南白百合学園の海老原校長様の足しげくのお見舞いやカトリックの教えを長女に指導して下さった事が非常に印象的でした。

 あれから、思えば、あっという間の年月で、私達夫婦も94歳、93歳となり、結婚70年を迎えました。

 そのバックボーンにあった事は、カトリックの教えと教会の共同体の姿でした。神を信じ、神に身をゆだね、今日まで生かされた日々を感謝します。

 昨今の世界情勢をみるにつけ、20世紀の戦争体験をした私達は、二度と暴力という戦争は、生きている間には、恐らくないだろうと思った事でしたが、20世紀をひきずり、また、21世紀も何か不安な情勢に近づきつつある事を知るたびに胸をいためているのです。「平和」こそ、世界の人々の願いである事は間違いない事実であるのに、何故か、悲しみの方向を向き始めているようです。

 私達の命は、神様から頂戴した大切なもの、その命を奪う、奪われることのないように「平和」を祈るのみである。

 お陰様で、神父様初め、教会の共同体の皆々様の、あたたかいまざざしの中、今年の敬老会に出席出来ました事を深く深く感激申しあげます。

 90過ぎの高齢になって、皆々様と共に何もする事もできず、また、十分な責任をはたす事も出来ませんが、ただ、ただ、日々、一生懸命祈ることのみしています。

 敬老会を主催して下さいました教会と、皆々様に心から、厚いそして深い感謝を申しあぐる次第です。

 惜しみない、奉仕の精神を心にきざみ、老人力の知恵があれば、たとえ、ほんの少しの力でもふりしぼりたいと強く希望しています。

 私達夫婦が、今日までの歩みが出来ましたことは、現在の教会があったればこそと思っております。

 今日から一歩また一歩、また手をあわせて祈る次第であります。「神の御心にゆだねます」「神に感謝します」と。



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敬老会を有り難うございました
鵠沼3区 平野

 今年の敬老会は、9月13日、11時の御ミサで始まりました。奉納には、いこいの庭で取れたブドウ、ミカン、ニガウリも添えられました。ホールでは記念撮影の後、聖堂中央に設けられた祝いの席に、70歳以上の90名が11テーブルに分かれて座りました。

 マーフィー神父様のご挨拶の中で、今年初めて参加された古希の方は10名と分かりました。花モメン店のお弁当を戴きながら、それぞれのグループでは、大いに話が弾んでいたようでした。手品や詩吟やフラダンスも会場を盛り上げてくれました。

 敬老会の参加者の中には、今年、喜寿(77歳)、米寿(88歳)、卒寿(90歳)を迎えられた方も何名かおられたと思います。白寿(99歳)、茶寿(108歳)、皇寿(111歳)の該当者はおられましたでしょうか。

 1年を通してもそうですが、人生を通しても、節目節目の区切りを作った先賢の英知に敬意を表します。少なくとも、節目節目に出会うたびに、来し方と行方に想いをいたし、賛美と感謝とお詫びとお願いの祈りの機会をもつことは、私たち信者にはとても大事なことだと思います。参加者の1人が話していました。年齢を特定して祝いの寿名をつけたのは素晴らしい。ついでに、全く不特定な、何時来るか分からないお迎えについても、葬寿など名付けたらどうだったでしょう。

 何時、お迎えがきてもいい状態で今日を生きるのは信者の生き甲斐、五十数年前、戦地に赴く時の心構えを思い出します。この生き方が、神の栄光につながるのでしょう。とすれば、1日でも1時間でも長生きしたいものです。老人の長生きの秘訣は、「転ぶな、風邪ひくな、食べすぎるな」ですと聞きました。お互いに健康に留意して、来年もここで元気にお会いしたいものです。

 最後はベイル神父様のお祈りと祝福を戴いて散会しました。敬老会の実施にあたり、鵠沼ブロック有志の、準備に、進行に、後片付けに、そして何よりも行き届いた心配りに対し、厚く感謝いたします。



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サンパギータを子供達に贈る会からのご報告
辻堂1区 海老原

 藤沢教会では、信徒の皆様のお陰で1992年以来、フィリピンの子供達に教育資金を送り続けてまいりました。ご協力有り難うございました。

 この度、現地ではこの基金を取りついでくださった神父様、聖母訪問会のシスター方が、これからはフィリピンの人たちの自主発展を願って、現地から離れることになりました。これにより、サンパギータを子供達に贈る会も終了させていただきます。

 1992年から2001年まで、10年におよぶ藤沢教会からの送金は、合計490万円になりました。これを奨学金として大学、専門学校、高校を卒業した人は29名。そのうちには司祭の道をめざしている人も居りますし、教師、看護婦、カテキスタとして活躍し始めている人もいます。また島にある各小学校の設備も充実し、子供達は衛生的で安全な環境で勉強ができるようになったそうです。 現地からの報告はその都度、八角形にゅーす、教会報を通じお知らせした通りですが、10年にわたる皆様のご協力が、日比の親善と、彼の地の教育の一助に役立ち、フィリピンの方々の自立に一石を投じられましたことを感謝と共にご報告し、現地への送金は終わらせていただきます。有り難うございました。

 なお、フィリピン聖母訪問会からのお便りと10年の歴史を次のようにおしらせいたします。

(注)サンパギータとは、フィリピンの国花です。



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フィリピンの共同体を支えてくださっている皆さま
聖母訪問会 総長 渡辺

 いつもフィリピンのために、お祈りとご支援をいただいていますことを、心から感謝申しあげます。

 実はこの度、あらたな呼びかけを感じ、フィリピンの共同体を閉じることになりました。私たち聖母訪問会会員がフィリピンに参りまして、はや26年の歳月が流れています。多くの皆さまのおかげで、ここまで歩ませていただいたことを、あらためて深く感じております。フィリピンを引き揚げるにあたって、多くの思い出と共に、ことばに言い尽くせない感謝の思いでいっぱいでございます。

 今後の新しい歩みがどのようになるかわかりませんが、これからもアジアにある日本の邦人会として、アジアの必要としているところに出かけたいと願っています。

 これまでいただいた数々のご恩への感謝と共に、お祈りをお願いいたしたくお手紙をしたためました。

 皆さまの上に神さまからのゆたかなご祝福をお祈り申しあげます。

         2002年8月15日



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キジト神父さまから

 今日は、難民キャンプの多くの人々の手による民芸品の数々をお送りできて嬉しく思っています。バザーに向けて皆さんに喜んでいただけると嬉しいのですが、どうでしょうか。 私は、いつもの通り、そこそこ元気で、教区の司牧と難民キャンプでの仕事に忙殺されています。というのは、例のアミンの身内でヨセフ・ユニーという者が率いる反逆者の一団が2週間前に、北ウガンダにあるスーダンの難民キャップを襲撃し、57人を殺害、数十名の負傷者を出す惨事を引き起こしたのです。なおその上に、略奪、放火などあらゆる蛮行を働きました。この一団はウガンダに平和をもたらすべく聖霊によって派遣されたと主張して、多年にわたって現在の政府を転覆させるべく荒らしまわっているのです。

 この状況下、政府と国連難民高等弁務官事務所とは、難をまぬがれた人々を、私たちの教区の管轄のもとにある難民キャンプに移すことを決定。そこで私たちは、明日から現在の1万人に加えて、さらに、1万2千人の難民のお世話を引き受けることになりました。私は教会を代表して、この仕事にかかわることを幸せと感じていますが、これは大変難しい使命であることも確かです。

 この便りを終えるに当たって、難民たちの苦難がどのようなものであるかについての新聞記事をお送りいたします。

 あなた方の孫たち、そしていとこたち皆さまによろしく。皆さまがたの上に神さまの祝福が豊かにありますように。

  9月6日     キジト神父

     (文責 辻堂1区 浮田 久子)



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皆さまのティールームよりのご報告

 昨年8月に、10円喫茶店として始めたティールームが、お陰様で2年目を迎えることが出来ました。

 ティールームを始めるにあたり、神父さま方から誰にでもわかる場所であるように・・また特に教会に初めて来られた方に、声をかけるように・・と教えていただきました。たとえわずかな時間でも、お茶が飲める場所、9時のミサ後ちょっとお話ができる場所として、その日その日神様が集めて下さる方々の楽しみとなりますように・・と努めています。

 どなたでも歓迎ですので、ホームレスの方々もお誘いすると、教会について感じていること、つらいこと、シャワールームのこと、将来の夢、人からよくしてもらったこと等々、聞かせていただける日もあります。

 今日はどんな方がいらしゃるか? どんな話になるか? 皆で一つのテーブルに着いてお茶を飲む楽しさ、共に祈る(最後に共同祈願の形で祈ります)よろこびを味わっています。皆様からいただいたお金から必要経費を引いたものは、毎月末に教会に献金させていただいています。

 これからも皆様に支えていただきながら、あたたかい場所にしていきたいと思いますので宜しくお願いいたします。神父様がご一緒してくださる日もあります。 世話人 一同



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「湘南ライフサポート・きずな」その後の歩み

8月号で紹介させていただいた「湘南ライフサポート・きずな」のその後の歩みと現状を簡単に報告します。

茅ヶ崎での生活施設の建物の契約とNPO法人の申請を6月に済ませ、住むところの無い方々のための施設の開設に向けて準備を始めました。茅ヶ崎市との話し合い、運営規則の作成などの準備を経て、8月21日に生活施設「ポルト湘南・茅ヶ崎」をオープンしました。当初の入居者は11名、その後数日おきにバラバラと入居が始まりました。

開所直後、町内自治会より施設についての説明を求められました。自治会との話し合いは、こちらの話しはご理解いただけたようでしたが、事前相談がなかったことに対してかなり強行に抗議されました。事後承認というかたちになりましたが、ご挨拶にうかがいました。その結果は良好で、隣の床屋さんは入居者用に特別料金を設定してくれたり、入居者の方にと冬用の衣類をとどけてくださる方もありました。

茅ヶ崎市役所はこの施設に比較的協力的なようで、生活保護申請はスムースにいっており、これまでに11名は保護決定しました。その後4名が申請受理されていますので、順次おりる予定です。ケースワーカーによる施設見学もあり、概ね良い印象を持ってもらっているようです。

8月末に入居者ミーティングを開き、当座の自治体制を話し合いました。取りあえず仕事に通っている人をのぞく全員が2つの班に分かれ、1週交代で、食事の準備と掃除を受け持つことにしました。現在までのところそれなりにうまく動いているようですが、その後のミーティングでも、食事準備がやや負担が多く、特に昼食の準備のために就職活動に支障をきたす恐れが出てくるとの声が出てきました。

そこで、出来たら週1回でも2回でもボランティアで昼食準備が出来ないかと思っています。どなたかやっていただける方がありましたら、ぜひお願いしたいと思います。善行の下村さんがその取りまとめをしてくださってますので、ぜひご連絡ください。

食材は少し手を入れれば出来るような状態で、伸こう会配送センターの方より毎日配送されます。この配送開始によって、当初行っていた毎日のメニュー作りと買い出しからは解放されました。

今日現在の入居者は22名、今後入居を希望している方もすでに数名いますので、10月中には当初予定していた25名を上回ってしまうかもしれません。

9月13日には神奈川県よりNPO法人の認可と第2種福祉施設の届け出受理がされました。いよいよ本格的に始動し始めたと言うところでしょうか。 これから、入居者の求職活動のお手伝いや多重債務の整理などまた次のステップにうつります。いろいろ知識をお持ちの方もいらっしゃると思いますので、もし出来る方がいらっしゃいましたら、御協力をよろしくお願いします。

9月より家賃の支払いが始まりました。毎月80万円の支払いです。また食材の支払いも始まります。10月からは常駐の施設長の人件費もかかります。毎月200万ほどの出費です。しかし、会費と寄付は現在までのところ80万円ほどいただけましたし、直接の経費はほとんど家賃・生活費収入でまかなえる見込みですので、何とかお金も回りそうです。入居された方々がまだまだ生活のリズムがつかみきれない所もあり、電気のつけっぱなしやエアコンのかけっぱなしなどもあり光熱費がやや心配ですが、大体予想通りかなといったところです。

今後冬に向けて、冬物の衣料を持っていない方も多いので、男性用の冬物衣料品や毛布、それからシーツなどもご寄付いただければ大変助かります。また、50代のまじめな方々が真剣に職を探していますので、もしお心当たりがあればお教えください。

この施設を始めてから、路上で生活している方々ばかりではなく、それ以外の多くの方々がこのような施設を必要としていることを知りました。日銭と蓄えで知人宅やカプセルホテルを転々としていた方、入院していたが帰る家も家族もない方、現在住んでいるアパートが取り壊しで転居を迫られているが、障害者で家族もないため新しいアパートを見つけられない方。そのような問い合わせが何件も寄せられています。

保証人バンクに関しては、まだまだ開始のめどもついてはいません。 これからも片手間仕事には荷の重いところもあるかもしれませんが、不思議なことに行きづまりそうになると新たな解決が見つかったり、困っているときに助け手が現れたり、支えと導きを感じます。

昼食の準備、病院への送迎、買い物の車出し、年金やその他の手続きの手伝い、経理事務の手伝いなどお手伝いしてくださる方がいらっしゃればうれしいところがたくさんあります。もしお手伝いいただける方がいらっしゃればお知らせください。

これからも、皆さまのお祈りと支援をよろしくお願いたします。

文責:川辺克郎



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10月の主な行事

4(金)初金ミサ・例会

5(土)壮年部黙想会

6(日)壮年の集い

13(日)スカウト入団・上進式

27(日)教会バザー



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<葬儀を考える会>

「良き看送り−家族に何ができるか−」

Q:最後の時を迎えつつある配偶者のために心からの看護とその人らしい看送りをしたいと思っていますが、どのようなことを心がければよいのでしょうか。

A:日頃から最後のときの具体的な希望や方法などについて話せる機会があればよいのですが、現実にはなかなかむずかいしいことです。その人のもの考え方や処理の仕方などを心に留めておきましょう。また、し残されたことはないか、何を大事にしておられるか、というようなことにも注意をむけてみましょう。

 家族や友人知人とのお別れもお互いにとって大切なことです。自然な形で貴重なひとときが持てるよう配慮できるとよいでしょう。残された貴重な1日1日を少しでも心地よく過ごせるよう、そして「祈りのとき」が豊かな深いものになるよう病室の清潔さ、静けさ、明暗などにも心を配りましょう。

 カトリック信者の場合は「病者の塗油」、「聖体拝領」、「ゆるしの秘跡」を授けていただけるよう教会に連絡してください。

 教会では司祭、シスター、聖体奉仕者、また、ボランティアグル−プなどが病気の方やそのご家族のために必要なサポ−トができるよう心がけています。

 葬儀に際しては故人のお好きだった「み言葉」「聖歌(音楽)」「お花」「大切な遺品」などで品位ある温かいお看送りができるのではないでしょうか。



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