八 角 形 に ゅ ー す

2004年3月7日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

藤沢教会の印象・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・神言会司祭 坂本

教会委員会報告

鵠沼ブロック新年懇親会に出席して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 古郡

鵠沼ブロック新年会締めの挨拶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 平野

北1ブロック集会の記録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行   辻垣

シスター益尾の「心を聴く」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 高橋

横浜教区学生連盟との交流会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 森田

新年のミサに思うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢1区 岡田

横浜教区典礼研修会(2/11)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行   岡村

ニュージーランド10日間の旅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼2区 石川

仏教とキリスト教 (7)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子

葬儀を考える会 Q&A

3月の主な行事

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藤沢教会の印象
神言会司祭 坂本

 藤沢教会にしばらくの間滞在させていただき、ごミサや集まりをご一緒させていただき感謝の時を過ごさせていただくことができました。

 教会の皆様の温かいお心に触れ、嬉しかったです。 テハン神父さまご教導のもとに、信徒の皆さまの自主的運営に委ねられた新しい教会づくりのモデルに接し、新しい時代に生きるキリスト教会の姿を目のあたりにいたしました。本当に素晴らしいと感じました。

 教会の諸活動が自主的、主体的に活発に進められ、お一人お一人が生き生きとしていらっしゃること、神さまの生命に生かされていらっしゃることをひしひしと感じました。

 教会を生かすものは、生ける神の霊であり、それは既に一人一人に与えられています。お互いが人間的な親しみからくる交わりだけでなく、一人一人に働いている神さまの霊を出会うその人の中から感じとっていく交わり、出会いが、神の教会を作っていくのではないでしょうか。

 テハン神父さまが進められてこられた「神と出会い」「人と出会い」「自分と出会う」場としての教会をとらえること。自分が住み、置かれている生活の場そのものが、神の救いの場となっていくような教会共同体を藤沢教会が全世界に先駆けてつくってくださることを願っております。

 皆さまの温かい心づくし重ねて感謝申しあげます。ありがとうございました。



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教会委員会報告
(2月7日)

<ブロック・活動部報告>

1.鵠沼ブロック

 2月8日(日)新年会を開催する。参加者80名程度を予定。詳しくは後記参照。

2.藤沢ブロック

 2月8日(日)世話役打合せ会を開き、今年の活動について確認する。

3.辻堂ブロック

  1. 10〜12軒単位で隣組を作ることを企画している。ブロックの一〜三区それぞれに担当委員を選定し、運営方法などを検討する。

  2. 「楽しいことを考えましょう」委員会を作り、男性も参加できるようにし、ブロックのコミュニケーションを深めていきたい。 座長は魚津氏。

4.北1ブロック

  1. 「お互いをよく知り合うこと」から始めようということで非常時の緊急連絡用住居地 図を作成のため、大庭・善行・六会の地区 別に共同作業をはじめ、そこで出てきた問題点を話合うことにしている。

  2. もう一つのテーマ「隣接ブロックとのかかわり」を目指して北二ブロックと合同での黙想会・遠足等を考えている。取り敢えず黙想会6月6日(日)聖園マリア幼稚園で行うことで準備している。

5.北2ブロック

  1. 2月8(日)ミサ準備会を予定している。

  2. 3月27日(土)ブロックの歓迎集会を予定。湘南台センターで13時30分より。

6.壮年部

  1. 2月8日(日)世話人会、防災体制で話合う。

  2. 3月21日(日)壮年の集い、活動部の紹介を中心に開催したい。

7.財務部

 椅子・電気など必要ある修理は総務部と相談の上、早めに行い、纏め払いのないよう予算の消化を心掛けていきたい。

8.福祉部

  1. @バザー収益金配分先からの一部返金、
    ある団体から10万4千円は多すぎるとして半分の5万2千円返金があった。選考時に辞退した別の団体があり、配分を受けた団体は自らと比較し、全額受けたのでは申訳ないとして半分を辞退したもの。福祉部 では2万円をイラン地震災害支援に、残り3万2千円を福祉基金に繰入れた。

  2. A5月23日(日)ボーイスカウトバザーを行うが教育部・国際部と相談のうえ実施 たい。

9.宣教部

  1. @1月18日(日)第五地区福音宣教委員会が開かれた。

    1. 昨年11月開催した短期キリスト教セミナーの実施状況が当教会福井氏より報告された。今年は11月13日・20日・27日の各土曜日が予定されている。担当は大船・鍛冶ヶ谷教会で戸塚・原宿教会はもう一年オブザーバーとして参加する。

    2. 会計報告が当教会平野さんより報告され承認された。

    3. 共同宣教司牧について大船教会鈴木神父・吉田氏より報告された。昨年行われたアンケートの結果から、「共同宣教司牧」という捉え方をしていい場合でも実質その動きは始まっている。

      • 「共同宣教司牧」の理解を更に深める作業は、研修コースの中で、また現実のニーズに応える動きの中で行うのがよい。

      • 従って、それぞれの地区や小教区が同一歩調でなくてもよい。

      等が紹介されたが、「共同宣教司牧とは司祭の減少を補うと捉えられがちであり、またそのほうが説明しやすい」などの意見も出され、実行に移す段階での難しさが指摘されている。ただ、司牧書簡「横浜教区における改革の基本方針」でも指摘されているように、先ずは信徒・修道者・司祭の意識改革であり信徒としての宣教司牧に果たす役割の認識が期待されている。今年は研修コースの詳細を企画し、説明や参加を呼びかけたいとのこと。今回の会合では、第五地区としてこの問題についてパネルディスカッション・講演会等の企画が提案された。(アンケート結果のまとめは事務局に届いています。)
    4. 当教会で行われている「結婚準備講座」が改めて紹介された。第五地区では他に実施している教会はなく、主任司祭の指導と 併せて意義のある講座として受止められて いる。

  2. 1月24日(土)キリスト者合同祈祷会が日本基督教団片瀬教会で行われた。天窓のある明るい礼拝堂で、すすめの言葉(説教)をナザレン教会の牧師が担当、共に集ってお祈りする意義を強く感じた。参加者100人程度、当教会からは10数人が参加した。

  3. 2月29日(日)梅村司教司式による教区入信志願式が15時より当教会で行われる。

  4. コイノニアプロジェクトが一次休止していたが、宣教部で推進していきたい。

10.教育部

  1. 1月25日(日)「学連の集い」が行わ れた。(詳しくは後記参照)
  2. 日曜学校

11.国際部

各コミュニティ・日本人との融合を目指していろいろ試みている。2月29日(日)は日本の料理を教えて欲しいとの希望で、「一緒に作って食べよう」として豚汁とお赤飯の料理教室、試食会を企画している。

<討議事項>

(1)信徒総会について

 2月15日に開かれる信徒総会の運営手順を検討した。なお、先月討議した第二部テーマにつき、二・三の方から提案いただいたが、運営委員会で相談のうえ、資料のとおりテーマを限定せず「ブロックと活動部――これからと今後」としてフリーにディスカッションすることとした。(信徒総会報告は前項参照)

(2)売店の運営について

 売店運営についての検討チームを設置したいとの提案がなされた。現在売店の年間売上高はほぼ1千万円、復活祭・クリスマスに集中するものの普段の月でも60万円程度ある。関係者からは取扱い品目が多く、場所が狭い、在庫処分したがなお残品が多いなど、店内を整理する必要があるとの声もでている。宣教の拠点でもあり、より有効に活用するため管理面・マーケティングの角度など大所高所からの検討チームを設置したいというもの。大方の賛同を得て、早急に自薦他薦を含めメンバーの人選を行うこととした。

(3)福祉寄付金について

 先に報告された福祉部のバザー収益金一部返金につき、寄贈先の選定について疑義がだされた。送金する団体がどのような活動をしているか十分把握すべきではなかろうかというもの。しかし、返金理由は前述のとおり善意によるものであり、委員会としても選定を福祉部に依頼し、結果を承認したものである。選定時福祉部でも次回は別の方法を検討したいとしているところから、こんごの問題として活動団体の情報把握に努力し、寄付金の価値・必要性などを含め慎重に検討することとした。



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鵠沼ブロック新年懇親会に出席して
鵠沼1区 古郡

 先日行われた、ブロック懇親会に家内と共に出席させていただき楽しく過ごさせていただきました。私共は藤沢一区から鵠沼一区への移動でした。私共は信徒になって五年です。まだ若葉マークがついている状態です。十分にこの教会のことを理解していませんので皆さんにご迷惑をかけていると思います。よろしくお導きくださいますようお願いいたします。

 当日は新しく受洗された方と転入者を含め多数の出席のもとに盛大に開催され、まずテハン神父さまのお祈りから始まり、新、旧のブロック長の挨拶とブロックとしての活動報告がありました。盛り沢山の料理と楽しい歓談の時を過ごすことができました。

 聖書の中にも、食卓を囲む場面が出てきますが、どんな話をしてたのでしょうね。この懇親会のために準備された方々に感謝し、料理を美味しくいただきました。また、ハンラティ神父さま、マーフィ神父さまの挨拶と10名の受洗された方と転入された方の紹介があり、アトラクションではギター合奏、弦楽カルテットの演奏があり、時間がたつのを忘れるくらいでした。



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鵠沼ブロック新年会締めの挨拶
鵠沼3区 平野

 今年になって締めの挨拶は、壮年部の新年会に続いて2回目です。これにちなんで、私自身の人生の締めくくりについても「そろそろご準備を」という天の声かと受けとめています。

 聖パウロの言葉に「皆さん、飲むにも食べるにも、何をするにも総て神の栄光のために行いなさい」とあります。私たちがこの世で使う持ち時間は、すべて神のためであって、私たち自身のためには、時間の割り振りはないようです。ですからこの鵠沼ブロックの新年会も、世俗の単なる飲み会で終わらせてはならないでしょう。

 今日は新入りの方々を含めて、80名以上が出席されました。2組の楽団の演奏もあり会場は大きな盛り上がりをみせました。一期一会、良い出会いは一生の宝と申します。聖パウロの教えに添って、この集まりでの素晴らしい出会いふれあいを、私たちが理想とする共同体作りのため、大きなはずみにしようではありませんか。

 楽しかったひとときを心から感謝いたします。ありがとうございました。



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北1ブロック集会の記録
ブロック代表 善行 辻垣

 何処かに春を感じながら、2月22日(日)北1ブロック集会がセンターホールで開かれました。

 信徒総会の後、早い時期に開くことができたのも前代表の荒井康昌氏(大庭)との引継ぎが昨年の11月頃から行われ、今年度の目標設定や部屋の確保など色々ご指導いただいたことによります。北1の信徒は219世帯519人が大庭、六会、善行地区に住んでいます。

 今回の出席は大庭地区21名、六会地区12名、善行地区10名でした。(10%に満たない出席率)そのうち夫婦揃っての出席が9組もあったのは救いかな。

 テハン神父様のお話に始まりました。

 「一人一人の役割は祈ること、聖霊の働きを願い、夢を見ることも大切です。北1ブロックは恵まれています。素晴らしい人材が沢山います。共同体の一人のメンバーとして隣の人に挨拶ができる関係をつくり、関心を表すようにして神の働きを味わいながら生き生きしている共同体であって欲しい」と話されました。(期待されている?)

 次いで教会としての報告、信徒総会の状況報告、2004年度の教会委員会のテーマ「ブロック活動と活動部との連携」については、各ブロックが活性化することが基本になる訳です。(ブロックの中に大勢の活動部員がいらっしゃる訳ですから)

 今年度は特にバザー、ガーデンパーティ担当の年であり、北2ブロックの皆さんと密接に関係する課題であることが強調されました。続いて北一ブロックの目指すところが確認されました。

 これらのテーマを実現するには次にあげるブロックの今年の主な行事を実行する中から実現していくのではないでしょうか。

 福祉部からブロックとの結びつきの大切さを強調されました。

 最後に神父様の話「どこのブロックでも、委員会などの報告に時間がさかれ、出席者の分かち合いが少ない。年に一、二回のブロック集会では少ない」と話されました。

 バザーが必要かどうか、意義をめぐって話しあい、分かち合いの「ブロック集会」を5月頃に開けたらと思いました。



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横浜教区学生連盟との交流会報告
藤沢1区 森田

 1月25日、学生連盟(学連)のスタッフが指導司祭、鈴木真神父様(茅ヶ崎教会)と藤沢教会を訪問してくださり、交流会を行いました。学連の活動を簡単にいうと、横浜教区の学生が集まり学生のための合宿の企画や教会訪問などをします。今回の交流会の参加者は、大学生3人、高校生2人、中学生1人、そして青年からも2人集まりました。合計8人で「書き初め」をして分かち合いをしました。テーマは「今年の抱負」。習字は久々に書く人が多く、みんな緊張しながら書いていました。一人一人が昨年を振り返り、書いた抱負の理由を発表します。参加者全員が歩んだ昨年の道と、今年の目標を分かち合い貴重な時間を過ごすことができました。

 藤沢教会の中学生、高校生、そして大学生が自分の教会の中だけではなく、学連の合宿などに参加し、外にどんどん向かって輪を広げていってほしいです。私自身も高校生の時学連の合宿に参加し、横浜教区の色々な教会の同年代の人と友達になりました。今回藤沢教会に訪問してくださったスタッフも合宿の時に出会った友達です。私はこの春、学生生活を終えて社会人となりますが、学連の合宿で出会った友達とは、これからも交流を続けて行きたいと思います。次の学生の人達が、教会の中にも外にもたくさんの同年代の仲間との交流が広がっていくことを願いながらここに学連との交流報告を致します。



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シスター益尾の「心を聴く」
鵠沼1区 高橋

 静かな音楽とともに、シスターの言葉にいざなわれるままにゆったりとした時間の流れる瞑想から始まる。シスターのやわらかい声が身体に、心に、静かにしみとおっていく。冷たかった足先が、手先が、そして心が暖かくなり至福の時が流れる。全員が瞑想の中の場から今の自分の場所に戻った頃、画用紙が配られる。瞑想の中で自分のイメージに留まった場所、自分の今の気持、想いなどを心に浮かぶままに絵や色、線、形等で自由に描き四、五人のグループに分かれて画用紙を見せながら自分を分かち合う。頭で考えて感じたことではなく自分の"気持"を言葉で表現しましょう、とシスターが何度もおっしゃった。

 瞑想の内容は…一、二回目は暖かい光の中に留まった自分。三回目は自分の一番安心できる暖かくて嬉しい場所。四回目は安心できる場所に自分と一緒にいてほしいもの、人、動物等を置いてみる。自分一人かもしれない。そして最後の五回目は自分が本当に大切にされ、愛され、受け入れられたと実感できた思い出を思い浮かべる。幼少の頃の事、結婚してからの事、父、母、兄弟、友人、先生、知人、そして家族、色々な人が出てくるかも知れない。テレビの画面を見るように出てくるにまかせて、一つの場面に捉まったらそのイメージについて行く。最後の分かち合いはグループでではなく、全員で時間をかけて一人一人が分かち合った。皆が真剣に分かち合いに心を傾けた。分かち終わった時、私は心が燃え立っていてあのエマオへの道の「心が燃えていたではないか」と言う言葉を思い浮かべていたら、はからずもシスターが「皆さんどうですか? 心が燃え立っていたでしょう! あのエマオの弟子たちのように」とおっしゃって、びっくりした。シスターの顔が輝いていた。皆が大きく頷き、全員が同じ想いの中にいることを強く感じた。一人一人の全く違った歴史の中に、"一人一人に戴いているものの素晴らしさ" "生きる力" "ありがたいこと"を見つけ感じていた。あっそうか「心を聴く」ということはこの"ありがたいこと"・・(聖霊の小さなささやき)・・をそっと聴くことかなと感じた。"ありがたいこと"を聴くことは自分の心を真っ直ぐに明け渡すことから始まるらしい。今、自分の五枚の絵を並べてじっと見つめている。自分の心の動きを見つめている。

私の心の真中にあるものを見つめている。人は"三つの不安"に苦しむとシスターに教えていただいた。"死の不安" "罪の不安" "無意味さの不安"そしてこの不安からくる苦しみの意味を、私達はわからない。何故こんなに苦しまなければならないかと。「この答えのないことに、ともに、一緒についていくことがパストラルケアです」とおっしゃったシスターの言葉が心に残った。「心を聴く」のイントロダクションが終わり、次のシリーズがこれから始まる。この場所に招いてくださった神様に心から感謝!



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新年のミサに思うこと
藤沢1区 岡田

 今年の当教会の元旦ミサは、新しいものが誕生する期待、望み、エネルギーを感じるものでした。

 もともと日本人にとって、新年を迎えることは宗教的で心地よい緊張感を感じるものであり、元旦のミサを初詣の感覚であずかる方も多いと思います。ただ普段と変わらないミサの典礼だと物足りない感じでした。新年の気分を味わうため、神社に出かける方もいることと思います。しかし今年の元旦ミサは違いました。

 まずミサの前に、先唱者の導きにより周りの人との挨拶を交わしたことで、ミサの中の平和のあいさつも一層親しみのあるものとなり、ミサ後のより多くの教会の方々との新年の挨拶へとつながり、交わりが深まったように思います。

 また聖書朗読では、「聖書と典礼」を目で追いながら聞いていたのですが、自然と活字から目を離し、朗読に耳を傾けるようになりました。何か伝わってくるものを感じ、自分のなかの濁ったものが爽やかな風によって運び去られたような感動を覚えました。朗読者の方にミサ後「とても感動しました。どうしたら、あのような朗読になるのでしょうか」とお尋ねしたところ、「みことばが自分の心を通して、自分に伝わるメッセージとして、自分の言葉で語りかけるように心がけた」という答えが返ってきました。みことばの力に開かれた朗読者を通して、みことばの働きを感じたのです。

 そして、第一朗読の民数記の祝福を二回、説教の後と派遣の時に皆で唱えたのも、新年を社会に向かって出発する私達にとって支えとなり、全世界のための祈り合いとなったように思います。

 ミサは、生活の中で、傷つき力を失ったり思わぬ助けに出会ったりする自分の祈りを共同体の中で表わし、みことばを聴くことで神の視点に近づき、共同体として周りの人々や社会に働きかけるよう変えられる神の働きの場です。元旦のミサは、私達の深い宗教感覚に根ざして、この神の働きが現れた体験として、私達の共同体を祝福するものとなりました。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。



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横浜教区典礼研修会 なぜ「主の日」というのか
善行 岡村

 なぜ私たちは主日にあつまるのか、それが今年の主題でした。

 「ミサのない主日の集会祭儀」のテキストを使っての実習もありました。

 午前中、市岡神父と久我神父の話があり午後実習とミサで終わりました。

 日曜日に人々は何をするのでしょうか、そしてその中で私たち信徒はなぜ集まるのでしょうか、と市岡神父は話し始めます。

 ユダヤ人とイスラム教徒の一週間は、いつから始まりいつまでなのかというサイクルの違いを延べ、人々が日曜日Sunday(太陽の日)を休むようになったのは、4世紀頃からだということです。キリスト教徒にとって日曜日は、復活されたキリストに出会う日です。創造の日、新しく生まれる日、根源の日なのです。「聖霊を受けなさい。あなた方が赦せば、天に於いても赦される」と、復活したキリストに祝福されて、私たちが人々の中に送り出される日なのです。

 前の週の日曜日から数えて8日目、週のはじめの日、弟子達はユダヤ人たちを恐れて、鍵をしめた部屋に隠れていました。すると突然、弟子達の中に復活されたキリストが立って、「あなた方に平和があるように」と呼びかけられたと、福音書に記されています。二週にわたってキリストは弟子達に現れました。トマスが居たのは後のほうです。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われたのです。

 私たちに復活したキリストは、毎週現れてくださいます。毎週キリストのからだをいただいて私たちはキリストに結ばれた共同体になります。キリストの復活を通して弟子達は、最後の晩餐、パンを裂く意味がわかったのです。

 市岡神父の話を聴きながらわたしは、どのようにして主の平和は、私たちにあるのだろうか。赦しは、いのちを贖う創造のはたらきではないだろうか。だから、私たちの新しい出発になるのではないか。

 イエスの言葉によれば、赦すために私たちは派遣される。「行きましょう、主の平和のうちに」も、主の創造のはたらきになりましょうと、わたしには聞こえる。聖霊を受けなければ、私たちは赦すことが出来ない。とすると聖霊もまた、創造のはたらきに違いない、と思いました。救いは既に私たちに来ていますが、完成していません。主が来られる再臨の時まで、私たちは完成を目指して生き、待ち望むのです。 エクレシア、主に呼ばれ集められた私たちにとって典礼は、活動の頂点であり、恵みの溢れる泉です。

 以上が市岡神父の要旨でした。

 久我神父は、既にミサもない主日に対応している共同体もある横浜教区の現実を知って欲しいと話し始められました。そして、ミサとミサのない主日との共通点は「わたしの名によって集まる二人三人のなかに、わたしは居る」いうこと。キリストは原秘跡で、私たちに、呼ばれた主による多様性の一致を証しする秘跡です。神の愛を生きているしるしです。みことばが読まれる時、私たちに主が現存し、主は生きて居られるのです。話を聴いた時、二人の弟子が感じたように私たち一人一人の心が燃え、「立ち上がりなさい」と声をかけられたように、傍観者ではなく当事者へと変えられ、アーメンと応えます。

 違いは、キリストご自身が十字架にかかり奉献されるのに合わせて、私たちも捧げられるということが、そこにはないのです。そして私たちは、ミサがあってほしいのにないので憧れ、いつか捧げられることを待ち望むようになります。しかし、キリストは常に、病者や弱い立場におかれている者と共に居られます。今ここにはないが、捧げられたミサに結ばれて感謝を強めることになります。

 これは荒れ野で食べ物がない状態、仮庵の祭りや断食にも通じるでしょう。そこで私たちは聖体とはどういうことか、考えるようになります。そして、私たちが主に呼ばれた者として互いを大切にするのも、訪問者や求道者たち、子供や老人、病者たちなど弱い者を大切にするのも、聖体に結ばれてであると。 司祭と司祭以外の奉仕者のはたらきも、すべて兄弟への奉仕であると、はっきりするでしょう。とまとめられました。

 最後にカンペンハウド神父が、ミサのない主日という足りない現実をどう補うか、私たちは考えなければなりません。と話し始められ、弱い者たちのことを考えなければ、近隣のミサのある教会に行くという方法もあるかも知れません。しかし、共同体が定期的に集まるのをやめるなら、その共同体は確実に崩壊します。

 集会祭儀は、司祭即ち司教から要請されてするものです。ミサがなくてもキリストの復活を祝うために共同体が集まってほしいのです。それを通して子供に福音を教えることも司牧者を育てることも出来ます。 「交わり」の出来る共同体が、今こそ望まれています。皆さんに託されているのです。 集会祭儀のテキストは、各小教区で独自のものを造る支えとなるように、出来るだけ簡単なものにしました。これを使う条件は只一つ。使ってみて不満があれば教えてくださいそれだけです。

 やってみなければ分からないことが多いので濱尾前司教は、奉仕者の養成より、先ず共同体の納得が大事だと言われました、と、まとめられました。



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ニュージーランド10日間の旅
鵠沼2区 石川

 この度、私共12名(内、藤沢教会6名)は、マーフィ神父団長の「ニュージーランド10日間の旅」に参加し、雄大なる自然の美しさを心ゆくまで堪能させていただきました。

 ご存じの通り、ニュージーランドは地球の南半球に位置し、北島、南島の二つの島からなっております。北島の北端は南緯34度(北緯なら関東中南部)南島の南端は南緯47度(北緯なら北海道稚内より北)に位置する細長い国です。従って日本に夏は当地の冬、日本の冬は当地の夏、私共が旅したのは当地の晩夏に当たりましょうか。陽ざしは明るく、陽も長く、木々の緑も色濃く、草花もそれぞれに色美しく咲いておりました。しかし、気温には夏の厳しさはなく、南島ではどうかすると、膚寒ささえ感じるような毎日でした。ニュージーランドはもともと人類の居住していなかった島なのだそうですが、8世紀ごろ、タヒチ島からマオリ族が渡来し、居住したのがはじまりで、17世紀にオランダ人が、そして18世紀にイギリス人が渡来し永住したということです。現在は人口400万人、その9割がイギリス人を主としたヨーロッパ人、1割がマオリ族ということですが両民族が仲良く暮らし。自然保護と高福祉政策を誇る牧畜国家ということです。この地にはもともと人間に、また他の動物に危害を加える動物は居住していなかったとか、そして現在も害になる物は一切入国しないよう、厳しく取り締まっております。私共も空港で入国の際、お菓子などの持参でさえ申告の義務がありました。

 私共はバスで見学いたしましたが、人口400万人、羊の数8千万頭という牧畜国、車の両側の牧草地には牛、羊、鹿と人間にやさしい動物が群がりながらも、自由にのびのびと晩夏の一日を過ごしていました。

 また建築物の周囲は、公共施設、個人住宅ともに樹木、そして草花がきれいに植えられ本当に美しいお伽の世界に入ったのではと錯覚する程でした。

 南島の西部は山岳地帯で、標高三千メートル以上の山々が連なっており、どの山も白く雪を覆い、断崖の裾はフィヨルドとなっておりました。私共は遊覧船に約二時間半程乗船し、ニュージーランドならねば堪能できない西岸の景色を心ゆくまで楽しみました。切り立った岩面の力強さ。そしてまたオットセイの親子が岩の上でゆっくりと身体を休ませている姿に微笑みながら。

 北島は南島より暖かく、コートを脱ぐほど過ごしやすく思われました。1887年に、公式に発見されたワイトモ鍾乳洞もまた素晴らしいものでした。洞窟内の鍾乳石、・ルビ・石筍・せきじゅん・も格別ですが、洞窟内に棲息する「ツチボタル」はニュージーランドのみに棲息する珍しく不思議な生物で、息をのむ思いで見学いたしました。巣の回りにねばねばした透明な細長い釣り糸を数十本たらし、光を放ちながら餌となる昆虫が飛び込んで来るのを待っているのです。見学者は皆、音をたてぬよう息をのんで観察いたしました。

 私共は旅行中、ほとんど毎日どこかでミサを捧げました。大聖堂、または田舎の小さな教会、またはホテルの集会室などお借りしてお捧げいたしました。南島のテアナウ湖の湖畔で明るい太陽の光をうけて風に吹かれながらお捧げしたミサも嬉しい思い出です。2000年前、イエス・キリストがガリラヤ湖畔で弟子たちと祈られたのを思い出しながら。

 わずか10日間の旅でしたが、雄大なもの、珍しいもの、美しいものなど見学させていただきました。そしニュージーランドの方々は自分たちの国土を非常に大切に守っておられることを強く感じました。

 最後に、マーフィ神父様が私共に声高らかに美しい詩を歌ってくださったことをご報告して、私共旅行者の喜びをお伝えいたします。

 マーフィ神父様の歌われた詩

  私は山々を仰ぐ
  助けはどこから来る
  助けは主から来る
  天地を作られた主から
      「詩編121 冒頭部分」



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仏教とキリスト教 (7) 日本的霊性、その二「歌道」
藤沢2区 兼子

越後・越中の旅の途上、一振で同宿となる遊女が自分たちだけでは心もとないので、どうか後について行くことをお許し下さい、大慈の恵みを垂れ仏道に心開く切っ掛けとさせ給えと懇願する。芭蕉が必ずや神仏のご加護がありましょう。しかし同行の件はお断りしますと述べた後の作となっている。実際にはフィクション( 曽良のメモにはない) かも知れぬこの句には人間に対する共感と不憫を敢えて拒絶する芭蕉の覚悟とを感じる。ものの本には「会者定離」エシャジョウリ云々と記してあるが、私にはむしろ芭蕉のこの旅に対する覚悟、夢窓国師風に言えば、大慈のために小慈を捨てるという覚悟を感じる。

「やがて死ぬ気色もみえず蝉の声」。蝉の旺盛な生命讃歌の前には死の影など微塵もない。しかしこの世における一切の事物は飛矢の如く素早くうつろう。無常迅速である。また激しく強い生命讃歌の只中にこそ蝉の儚い生の終わりが潜む。メメント・モーリ死を忘れるな。芭蕉の胸中には蝉に自らを重ね「無常迅速、生死事大」が去来していたことだろう。「なにごとにおわしますかはしらねども、かたじけなさになみだこぼるる」と日本人一般の「聖なるもの」Das Heilige に対する気持ちを歌った西行は、この芭蕉によって「笈の小文」の中で「西行の和歌における….雪舟の絵における、利久が茶における、その貫道する物は、一なり」と評される。勿論、芭蕉自らそこに連なる自負を持つ。

平安末から鎌倉期に興隆した仏教は日本的霊性の中核にあり現代迄、影響している。私たちが路傍の虫を踏まぬように歩くのも大袈裟に言えば輪廻転生を信じているからだ。遠藤の『海と毒薬』で聖職者の役割を果たす女性、阿部ミツが親鸞の『和讃』を唱えて病友の死の不安を鎮める。日本における仏教の浸透ぶりを知っていれば、『菊と刀』のR・ベネディクトも日本の「恥の文化」対西洋の「罪の文化」という図式で日本人の精神性を一刀両断することはなかったろう。また、柳田国男が「およそ日本人くらい朝夕、つみという言葉を口にした国民もないだろうに」と皮肉っぽく反論することもなかった。

さて日本的霊性にどうやって信仰の火をつけるか。それが問題である。ここで参考になるのは、ザビエルが布教の可能性に関してヤジローから得た答えである。ザビエルは「自分たちが日本に行って布教したら沢山の日本人がキリストの教えを信じるようになるだろうか」と尋ねた。それに対してヤジローは次のように答えたという。「日本人はすぐには信者にならないだろう。日本人は知識を大事にする国民だから、先ず神父がたの知識の深さが試される。人知に関すること、自然の理に関すること、日本人の質問に明確に答えられなければならない。次に聖職者が信者に教える通りの生活をしているか、つまり言行一致が問われる。そして三番目には領主や国王がその教えを信ずるようになれば、多くの日本人は信じるようになるでしょう」

私はこれは今でもそのまま通用する布教の要諦だと思う。日本人は階層、職業、教育程度の差異にかかわらず知的水準が高い。だから宗教者として尊敬され、教えを広めるためには先ず、日本人以上に知的能力が必要だ。と言っても日本人以上に漢字が読めるとか、日本仏教に詳しいことが要求されるのではない。聖書の譬え話を学問的蘊蓄と体験的理解の両方から、真摯に淡々と語って下さればよい。次に聖職者の言行一致が問われる。黙々と模範を示すこと。N・ホ─ソンの『緋文字』はピューリタニズムに対する一種の皮肉だそうだが、あそこには信仰の真理が描かれている。女主人公は姦淫の罪のために村八部になるが困窮者に黙々と手を差し伸べて菩薩行に励み、ついには周囲の人々から慈悲の女と迄、尊敬される。改悛、滅私的な、崇高なまでの牧師に対する愛により彼女はついに聖女に等しくなる。そのような黙々たる菩薩行こそが仏教、キリスト教を問わず日本の宗教的指導者には大事なのだ。

最後のは十六世紀、日本の歴史的状況によるものであり、これは同時代のヨーロッパ(宗教改革時) の領主・国王と領民の間の信仰の関係と同じである。領主がプロテスタントになれば領民もなったし、国王がカトリックに再び改宗すれば国民はやがてまたカトリックになったのだから。むしろここのところはこう解釈したらよい。日本人は教義上の優劣ではなく(仏教でも教相判釈−−教えを批判的に比較し選ぶことはある) 教えを信奉している人の人格や徳により判断するのである。「教義の内容は(面倒くさくて) よくわからないが、あの方がそう仰るのだから信じようではないか」。それが日本的信仰入門の姿だ。と言うことは我々信者や聖職者が黙々と社会に対して模範を示せということになる。

禅はつまるところ「己事究明」(自分さがし) に始まり「己事究明」に終わる。そのたどりつくところは「調己丈夫」(己を頼みとすること) である。キリスト教の信仰も先ず自分とは誰か、本当の自分に出会うことから始まる。近藤雅弘師の近著『私とは誰ですか』を読めばそうだし、グリフィン師の養成講座でも入門者は先ず自分を知り、ありのままの自分を受容することから始まる。となればキリスト教も禅仏教もつまるところは同じと言える。日本人は今、自分がもっているもの、と言うより自分自身が日本的霊性という宝物に埋もれているのに気づいていない。恰も洪水の中で水が呑めないようなものだ。日本的霊性、しかしそれは決して外形を指すのではない。信仰から生活迄、日本的霊性における真理は一言で尽くせば無、空、「無一物中、無尽蔵」なのである。



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葬儀を考える会 Q & A

Q: 葬儀のお手伝いはどのようにしたらよいのでしょうか。

A: 亡くなられた方の地区とその月の当番地区の方が、主になってお手伝いします。

 通夜や葬儀の始まる一時間前に行き、ご遺族のための控え室と、お茶の用意をします。ブルーの歌集を椅子の上に配ったり、トイレの汚れや、トイレットペーパーの点検をします。献花や会場の案内も手伝います。

 亡くなられた方のご家族のことを考えると手伝いは大変ありがたいものです。お手伝いに出難い方もいらっしゃると思いますが、天国に旅立たれる、兄弟姉妹のために共に祈り、歌うことは、共同体の一員としても大切なことではないでしょうか。



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3月の主な行事

5(金)初金ミサ・例会

7(日)辻堂ブロック集会

14(日)藤沢ブロック集会

20(土)春分の日 彼岸ミサ10時

21(日)卒業感謝ミサ 9時30分ミサ中 壮年の集い

28(日)静修の日・共同回心式



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