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八 角 形 に ゅ ー す

2004年8月1日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

堅信式にあたって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横浜教区長 梅村司教

教会委員会報告

藤沢教会50周年に関して

湘南台センター開設10周年記念のご案内・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湘南台センター 増田

北二ブロック地区集会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後 橋本

鵠沼ブロック集会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 八子

堅信を受けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 橋本

堅信・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大庭 坂本

キリスト教入門講座との出会い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六会 大泉

「主の備えて下さった道」を歩む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂2区 梅沢

仏教とキリスト教(12)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢2区 兼子

8月の主な行事

お墓を考える(4)

2004年 藤沢教会バザーのお知らせ

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堅信式にあたって(6月27日説教より)
横浜教区長 梅村司教

 イエスは天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。エルサレムに向かう、それは十字架への道を歩み始めたということであります。イエス様は父である神様のみ旨に従って救い主としての使命を果たそう、果たしていこうという時、聖霊がイエスを導いたとそのようにルカの福音書は記しています。イエス様が救い主としてのその活動を始められた、それはまさにヨハネからの洗礼をもってのことでありました。その時聖霊が下り、そして聖霊に導かれてこの宣教活動を始められたということでありました。それは弟子たちにあっても同様のことであります。イエス様の受難の時、イエス様を裏切り、つまずいた弟子たちではありましたけれども、復活なさったイエス様と出会ってもう一度イエス様に従って歩んでいこう、そうした時にこの聖霊が彼らを導き、その使命を全うするために働かれたということが、同じルカによって書き記されたと使徒言行録に記されています。

 今日の福音(ルカ9・51〜62)はイエス様に従う弟子の覚悟が語られております。私たちもイエス様に従う者として、そういう覚悟が求められているということでしょうか。私たちがイエス様に従って、その弟子として従っていきたいというのならば、私たちは聖霊の導きをまず仰がなくてはならないということであります。イエス様が本当に父である神様とひとつになってそのみ旨に沿って歩んで行こうという時に、聖霊はやはり働かれていたということであります。私たちがイエス様に従って、イエス様が望まれることを果たしたいというならば、まず私たちがイエス様と一致していなければ、私たちのうちにあって聖霊の働くそうした場がなくなってしまうのかもしれません。

 どうしたらイエス様と一致させていただくことが出来るのかということであります。イエス様ご自身の言葉に従うならば、三つ挙げることが出来ます。その一つは、二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるとおっしゃられたその言葉です。第二番目は最後の晩餐の時に、「これは私の体である」とおっしゃったことです。そして最後にたとえ話の形でありましたけれども、「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれたことは、私にしてくれたことなのである」。この三つのことが思い起こされるのではないかなと思います。

 二人または三人が私の名によって集まるところには私もいるとおっしゃってくださった。信じる人々の集いの中にキリストはいてくださるということであります。この聖霊降臨の時、弟子たちは一つの所に集まって共に祈っていました。そのとき弟子たちは、聖霊に満たされました。一堂に会し共に祈ることの大切さがそこに示されていると思います。一堂に会し共に祈る、これはこの神様と私だけの関係において実現されることではありません。一堂に会し共に祈る、祈りも様々な形があるでしょう。私たちは、この神様と私との関係のうちに祈ることもおざなりにしてはなりませんけれども、それ以上に共に集い、共に心を一つにして祈るということの大切さが、問われているように思います。神様と私では実現しないということに私たちは留意したいと思います。

 もう一つ、最後の晩餐の時にパンを取り、「これは私の体である」、ぶどう酒の満ちた杯を取り、「これは私の血である」とそのようにイエス様はおっしゃって下さいました。私たちがこうして集まってパンとぶどう酒を用いてキリストの祈念をする時に、そこに確かにキリストはいて下さるということであります。ところでミサの時に司祭はイエス様の最後の晩餐の時のその言葉をイエス様に代わって言いますけれども、「これは私の体であるこれを私の祈念として行いなさい」。それに続いて司祭は「信仰の神秘」と宣言します。それに続いて会衆の応答が用意されています。多くの教会では日本語のミサ典礼書による第一の形式が応唱として唱えられているようでありますけれども、実は第二形式もあるのです。まあ見るところラテン語規範版に近い形になっています。「主の死を仰ぎ、復活を称え告げ知らせよう、主が来られるまで」というものであります。告げ知らせようというのが第二形式の中心におかれています。御子キリストの死と復活を、またイエス様の十字架を通して示された父である神様の愛を告げ知らせようという宣言であります。これを受けてミサの最後に、「行きましょう、主の平和のうちに」、ラテン語ではイテ・ミサ・エストという言葉になっています。ミサ、派遣されたということであります。そこから感謝の祭儀をミサと呼びならされるようになったと言われています。御子キリストの死と復活を、またイエス様の十字架上で示された父である神様の愛を告げ知らせよう、そのために私たちはそれぞれの場に派遣されていくということであります。しかし、聖体の中にキリストは確かにおられるということでありますけれども、キリストをご聖体の中に、またご聖体の中だけに閉じ込めておくのは、どうかなと思います。キリストが共にいて下さるということは、もっと豊かな現実だと思います。

 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれたのは、私にしてくれたことなのである」。これらの最も小さい人、たとえ話の形でありました。それは今まさに飢えている人、渇いている人、病気の人、宿もなく着るものもない人、そういう人々の中にキリストはいると。このような形でイエス様が共にいて下さるということを現代の世界で最もはっきりと示し問いかけてくれたのが、マザーテレサではなかったかなとそのように思います。目の前で苦しみ弱って助けを必要としている人を通して、キリストは今も私たちと共にいて下さる。遠くから道端に倒れている人を見て、あの人の中に果してキリストは本当にいるのかしらと考えて分かるはずのものではないということであります。マザーテレサのように、道端に倒れている人を見て、キリストの約束を信じ、実際に近づいて行ってその人にかかわっていく時に初めてキリストは共にいるというその現実を確かなものにすることが出来るということではないかなと思います。それはイエス様が善きサマリア人のたとえ話をもって私たちに問いかけたことでもあります。私たちが傍観者として遠くから眺めていて判るようなことではないということを、この善きサマリア人のたとえは私たちに問いかけていると思います。

 ご聖体のキリストもそうであります。遠くから見ていただけならば、ただのパンにしか見えないかもしれません。しかし私たちがそのパンに込められたキリストの思いを受け取り、その思いをしっかり受け止めて生きていこうとする時に、確かにキリストは私たちと共にいてくださるということなのだと思います。二人三人と言いましたけれども、私たちのこの集まりもそうであります。キリストが共にいてくださると約束して下さった集いであります。しかし、外から見たらただの人間の集まりにしかすぎないかもしれません。キリストの名によって集まっているとは言ってもやっぱりただの人間の集まりじゃないか、皆さんもそういう思いに駆られたこともあるかもしれません。しかし私たちがキリストの名において集まろう、キリストを中心に集まろうと思って集っていく時に、また実際にキリストのように人とかかわっていく時に初めてキリストが共にいて下さる集いになっていくのではないかなと思います。私たちがイエス様と共にイエス様に従って歩んでいきたいという時にまず私たちに求められるのは、いかにイエス様と一致させていただくか、その一致をもって聖霊が私たちのうちにあってイエス様の考えに沿い、そして神様のみ旨に沿って歩んでいくことができるということであります。

 このイエス様の残してくださった三つの言葉を受けとめるならば、次のようなことが言えるかもしれません。私たちが聖霊を受け、宣教の使命を力強く果たすよう召されているその私たちの教会共同体が本当にキリストの共同体と言われるためには、三つのことが目に見える形で示されていなければならない。それは、聖体のうちに示されている、十字架上で示されているキリストの愛を、そして父である神様の愛を述べ伝えていること、信仰が、私たちの信仰が伝えられていること、述べ伝えられていること。もう一つは祈りが捧げられていること。もう一つは聖書の中では小さい人、貧しい人と呼ばれていますけれども、私たちの現実の社会で本当に困っている人に、助けを必要としている人に手を差しのべていること、愛が注がれていること。この三つのことが本当に目に見える形でキリストの名において行われている時に、私たちの共同体は真にキリストの共同体と呼べるものだということだと思います。

 こうした三つのことも今までやはり司祭にかなり依存していたところがあるかもしれない。司祭を中心とした、司祭に依存してきた私たちの共同体、今問われているのは、私たち一人一人が協力し合って、教会の使命を共に責任を持って果たしていくようにということであります。そうしたときにこの三つの事柄をそれぞれの形で私たちが引き受けていかなければいけないということだと思います。信仰が伝えられていること、祈りが捧げられていること、愛が注がれていること、この三つの奉仕の勤めをそれぞれの共同体で十分に果たしていく、そのすべを今私たちは模索していかなくてはいけないということであります。神奈川県においては、共同宣教司牧、信徒と修道者と司祭が共にそれぞれ与えられた形で教会の使命を果たしていく、そのあり方を今委員会を設けて進めています。皆さんもそのことを心に留めながら歩んでいただければ、共に手を携えて歩んでいただければと思いす。横浜教区全体が、そしてキリストの共同体、キリストの教会と言われるように、力を尽くしていきたいと思います。今日は堅信の秘蹟を通して聖霊の恵みが確かに与えられると思います。すでに堅信を受けた私たちと共に新しい受堅者を交えてキリストの弟子として歩んでいくことができるその恵みを祈りたいと思います。



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教会委員会報告
(7月17日)

<報告事項>

(1)財務報告

 本年1〜6月の財務状況は、収入が2,703万円、支出が2,685万円で18万円の余剰となっている。昨年に比べると収入、支出ともに減少しており、収入では葬儀収入が、支出では人件費がそれぞれ大幅に減っている。

(2)ガーデンパーティー

 予定どおり8月7日(土)午後5時〜7時まで実施する。子供用ゲームのほか外国人コミュニティのダンスなどが計画されており、楽しいものになるよう期待している。

(3)50周年準備チーム

 6月27日に第一回目の会合を行い、教会委員会の意向について理解するとともに、諸々の計画の実行可能性や日程の調整をすることを確認した。その中でテーマが必要と考えており、広く募集することも検討する。4月29日が献堂式だが年間を通しての締めくくりとして「王であるキリスト」の祝日(11月21日)に記念ミサを行うことを予定している。各ブロック、活動部に対してはこれまでの提案に肉づけをしてメモとして8月上旬までに提出してほしい。なお、4つのブロックから出された信徒名簿の更新については教会委員会で結論を出してほしいとの要望があった。

(4)湘南台センター関連

(5)ブロック

@鵠沼ブロック

A藤沢ブロック

B辻堂ブロック

C北1ブロック

D北2ブロック

(6)活動部

@教育部

A宣教部

B福祉部

C国際部

D壮年部

E総務部

<討議事項>

(1)売店検討チーム答申について

 スタッフとの合同会議を行い、8月に棚卸しをした上で答申に沿って進めるという基本方針が了承された。

<その他>

(1) 共同宣教司牧について

 典礼のみからの見方が強いが、すべての信者が祈り合い、分かち合い、奉仕し合い、証しすることである。

(2) 夏休み

 教会事務所 8月9日〜13日 湘南台センター 8月15日〜22日



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藤沢教会50周年に関して

 当藤沢教会は来年50周年を迎えます。1955年4月29日いわゆる「丘の上の教会」が献堂されたころの信徒は300名程度であったとのことです。爾来半世紀、私たちの教会は約3,800名の大所帯に成長しました。信徒数では麹町・浦上・吉祥寺についで日本で4番目といわれています。

 今年の信徒総会でもご案内しましたが、この記念の年を迎えるにあたり何をすべきか、各ブロック・活動部をとおして皆さんの声を聞かせていただき、4月・5月の教会委員会で検討してきました。その結果、大きな方向としては

@過去を振り返るだけではなく、50周年をきっかけとして教会活動の未来へ向けての足がかりを創る。

Aそのためにあらかじめイベントは企画せず信徒個人・グループ・活動部・ブロックからの自発的な盛りあがりを尊重する。

Bまた、できるだけ若年層・地域社会を含めた多くの人との係わりを心掛ける。

 いわば「未来に向けて手づくりの50周年を祝う」ことに決まりました。

 現在のところ、全体行事としては記念ミサを中心に著名人による講演会、信徒全員で歌うコーラスなどが提案され、グループ活動としてもブロック・活動部から、これからの教会活動に向けての試みがいくつか発案されています。また、絵画・書道・陶芸など趣味の会の展示会、各種演奏会で盛りあげていただく案も出ていますが、すべてがまだ発想の段階です。

 先月の「八角形にゅーす」で紹介されているように、これらの案を調整・推進するために「50周年準備チーム」が教会委員会から依頼されました。準備チームでは委員会の趣旨に沿って、この50周年を皆さんと共に歩んでいきたいと考えています。

 まずは前記三項目の方向を踏まえて、全員が理解できる大きなテーマがないか。そして来年一年間に皆さんに参画していただけるプランがもっと膨らまないか。ご提案・ご意見等ございましたら準備チームメンバーまたは事務局までお申し出ください。

50周年準備チーム

(リーダー)藤沢2区 兼子盾夫
          鵠沼2区 小藤 晃
          藤沢1区 岡田芳明
          大 庭  八木 恵
          大 庭  三神喜信



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湘南台センター開設10周年記念のご案内
湘南台センター 増田

 湘南台センター10周年を一つの区切りとして、新たな出発をするために左記のとおり、記念会を計画いたしました。皆さまのご参加をお待ちしております。

 日時 9月11日(土)13時30分

 場所 湘南台センター

 内容

 13時30分 講演会 講師 兼子盾夫氏    遠藤周作「おバカさん」と「ヘチマ君」
          ・・おもしろくて、やがて悲しい愛の傑作   二連発・・

 15時 ミニコンサート

 16時 記念ミサとパーティー

 (パーティー参加の方は会費500円です。)

 センター10周年に対する皆さまの思いご感想を是非センターか、「八角形にゅーす」(8月20日締め切り)までお寄せください。お待ちしております。



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北二ブロック地区集会
長後 橋本

 6月26日、23名の出席で行われました。新しい信者さんや新入会員の紹介の後各委員会の報告があり、湘南台センターの十周年の具体的な提案もなされました。

 葬儀についてのお話では火葬の祈り納棺の祈りの練習や体験が計画されているとのことで、出来ることは少しでも自分達の手でとの意気込みに、自信のない私までも引き込まれました。

 7月のミサ当番の連絡で典礼を正しく行うための注意として、聖書を読む人は文章の前の題から読み、み言葉に礼をして読む。読み終えてみ言葉に敬意の礼をするのであり、神父様や皆様に礼は要らないのです、など他にも3件程を興味深く伺いました。御ミサのことがまだよくわからない者にとっては伺いたかったお話でありがたかったですが、充分ご存知の方も口々に「こんな大切なことは皆さんにもお伝えして徹底すべき」と大きくうなずきあっておられたのが印象的でした。

 この日はシスター吉岡もご出席で建設的なご意見をいただき、最後にはクロスをレース糸で編むという珍しい手芸品の作り方を教えていただくことまでお引受けいただきました。7月10日3時からの講習にはどなたでもご参加下さいとのことです。大いに盛りあがって次回の確認をする皆さんの目は輝いていました。

 北二ブロックの皆様は新入りもしっかり会の一員として扱って下さり、また、さりげなく気を配ってくださいます。私はあまりの心地良さに甘えてしまいそうな自分を戒めている次第です。



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鵠沼ブロック集会
鵠沼1区 八子

 7月4日の日曜日、鵠沼ブロック集会が11時より12時30分までセンターホールで開かれました。鵠沼ブロックではブロック集会を年2回行っています。目的はブロックの親睦とその時の教会委員会の主なる議題を話し合っています。

 今回は50数名の方が集まり、

@ 共同司牧宣教の意味からも私達信徒による葬儀の奉仕がより必要になること

A 藤沢教会共同体の墓地について教会内に作るか、または聖園女学院の一部を利用させてもらうか                 について皆さんと話し合いました。これらの議題はすでに「八角形にゅーす」や各集会のたびに報告、話し合いがされてますので関心が高く、良く理解されてると感じました。

B 防災の準備

集会の冒頭のテハン神父様の挨拶でもこれらのことを中心に挨拶されました。

 新人、転入者の方も出席され数名の方が紹介されました。もうすでに講座で知り合いの方もおり、皆さんと親しく懇談されてました。より親睦が深まる事を願っています。

 集会の後半ではお茶とサンドイッチの軽い昼食があり楽しいひとときを過ごしました。

 鵠沼ブロックには約700名の信徒がおります。今回出席された方は50数名、全体の一割にもなりません。次回は11月7日を予定してます。一人でも多くの方が出席されればと願っています。



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堅信を受けて
大庭 橋本

 6月27日(日)、僕は堅信を受けることができました。

 堅信を受けるにあたっては、教会の方々がたいへん充実した準備講座を開いてくださいました。堅信は、聖霊の降臨によって賜物をいただき信仰を強めるという秘跡ですが、僕は幼時洗礼にもかかわらず、聖霊とはどんなものかよく理解していなかったため、はじめは少し戸惑いがありました。

 しかしこの5回にわたる講座で「聖霊への気付き」や「共同体」などのテーマについて説明していただくうちに、またそれに関するゲームやエクササイズを通して、徐々に理解を深めることができました。その後小グループに分かれてゲームの感想をはじめ、「自分にとって聖霊とは何か」や「キリスト者として堅信で受けた聖霊の賜物を共同体や社会にどう活かすか」について、一歩踏み込んだことも話し合い、小学生から年配の方に至るまでさまざまな人の意見を聞くことができました。さらに、テハン神父様がたいへんお忙しい中、毎回最後にお話してくださり、また浮田さんはご自分の人生のなかで聖霊の働きを実感された体験を語ってくださいました。このような貴重な経験はふだんなかなかできるものではなく、準備講座を通して信仰や聖霊について理解を深めることができたのは、中学生の僕にとってとても有難いことでした。

 代父は祖父に頼むと喜んで引き受けてくれました。当日はかなり緊張してしまい、残念ながら梅村司教様のお話をすべては覚えていませんが、キリスト者や共同体として行うべき三つの大切なことは覚えています。その一つ目は福音を宣べ伝えること、二つ目はともに祈ること、そして三つ目はマザーテレサのように弱い立場のひとびとに手をさしのべることの大切さです。これらのことを実行することは、戦争への不安や個人主義が蔓延している今の世の中で最も求められていることなのではないでしょうか。信仰や奉仕の心は、教会での侍者などの手伝いのときはもちろん、日常生活の中での小さな見落としがちな場面でも試されていると思います。忙しかったり疲れていたりするときにこそ、神様がいつもどんなに私達のことを心にかけてくださっておられるかを思い起こすことが大切なのだと思います。

 堅信の後、僕は不思議と前よりも教会の手伝いを喜んで引き受けられるようになりました。そして今、司教様の話された三つの大切なことを、毎日の生活の中でどう活かしていくかを考えています。

    (堅信者は58名でした)



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堅信
大庭 坂本

 洗礼のお恵みを受けてから三年がたち、聖霊という言葉の意味もよく分からないままに、堅信準備講座の申し込みをしました。

 まず一回目の講座では、今まで思い込みや自意識に邪魔されて、ありのままの物事の姿を見ることができずにいたのではないかと考えさせられました。それは、自分という殻に妨げられて、神様が見えなくなることにつながってしまうのかもしれません。二回目では、イエス様が生きていらした場所にタイムスリップすることを夢想してみました。その後、グループで、イエス様がここにいらしたら、一緒に何をしてみたい?ということを話し合いました。今まで、このようなことを考えてみたこともなかったので、初めは戸惑いましたが、話し合いをしているうちに、本当にイエス様が私たちの間にいらっしゃるような気がしてきて、それはとても新鮮な感動でした。三回目では、「世界が100人の村だったら」をみんなで読みながら、話し合いました。そして、私たちがどんなに恵まれているかを思いました。食べるものがあり、戦争の危険を直接経験したこともなく、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることもなく、教会のミサにあずかることができます。それは、世界の30億人の人より恵まれているというのです。そして、同じ人間として生まれながら、さまざまな苦しみを抱えている人々のことを思い、自分に何ができるかを考えました。次に二人ずつペアになって目隠しをし、聖堂の中を歩いてみました。初めての経験で、目の不自由な方の不安な気持ち、また、誘導してくださる手の温かさを感じることができました。講座を通して、堅信の秘蹟によっていただく聖霊のお力がどんなものか、少しずつ分かってきたような気がしました。そして、最終回では、いつも神様に見守られていることを感謝し、人のお役に立てることを最大の喜びとすること、すべては神様のみ計らいの中にあることを知って、神様のみ旨のままに、自分の全力を尽くして、この人の世に少しでも明るさを加えることができる存在になりたいという決心を、奉献文にしました。

 堅信式のごミサの中で、梅村司教様は、「小さい、貧しい人の中にキリストはおられる、だから傍観者になってはいけない。聖霊を受けた私たちは、宣教の使命を果たすように求められている。私たちの教会は、キリストの共同体として、神様の愛を宣べ伝える、祈りを捧げる、小さい人、現実社会で困っている人に手をさしのべる、この三つのことを、目に見える形でキリストの名のもとに行い、共に責任を持って協力し合い、使命を果たしていきましょう」とお話くださいました。そして司教様は一人ひとりの額に十字のしるしを下さった後、目を覗き込むようにして「主の平和」とおっしゃいました。私も「主の平和」とお答えしたとき、聖霊のお力をいただいたこと、そして、使命を果たすように求められていることを強く感じ、神様のみ旨によって生きる決意を新たにしました。日々の生活の中で、何かしなければならないとき、謝らなければならないとき、目に見えないお力に、後押しされるのを感じます。このお恵みに感謝し、共同体の皆様のお力もいただいて、これからも少しずつ前進していきたいと思っております。ありがとうございました。



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 97年から3回にわたって当藤沢教会で行われたキリスト教入門講座のリーダー養成講座には、藤沢教会をはじめ近隣の教会、遠くは横浜教区外の教会からも含めて100名以上が受講・修了し、それぞれの持場でその経験を生かして活動しあるいは活動しようとしている。

 この養成講座はグリフィン神父の指導よるものではあるが、一方でこれらを企画・準備し、またグリフィン神父と共に講座を進めてこられた大泉さんの多大な貢献があってこそ成り立ったものである。

 今回で一つの区切りということであったので、大泉さんの講座への思いについて執筆をお願いした。         広報部 福井 敏之

キリスト教入門講座との出会い
六会 大泉

 いまから25年ほど前の1979年の初夏、主日ミサ後の教会の広場で、主任司祭のガラハ神父から、「9月から始まる入門講座のリーダー養成講座に参加して見ませんか」とお誘いを頂きました。「いますぐ返事はできないと思うので、よく考えて応えてください。9月から来年の7月まで土曜日の夜7時から2時間の予定です」とのことです。

 当時土曜休日制もまだ一般的に定着しておらず、まして日本経済が高度成長期への道をひた走り、がむしゃらに拡大成長へ走っている時代の真っ只中にありました。私もご多分に漏れず、会社の中堅として、また一家の柱として期待され、それに応えるのが当然と、所謂馬車馬の様な日々を送っていました。かろうじて、子供にせかされ日曜日のミサには出席しておりましたが、習慣化した信仰の域を出ておりませんでした。

 「このような私になぜ?その上時間的にも無理」と翌週神父様にお断りしました。その時、神父様は困ったような顔をされ「あなたの講座の受講料は教会維持費の中から支払ってしまいました」と言われます。センターホール建設に向けて、唯でさえ厳しい教会会計の中から受講料を支払済みとなれば「教会メンバーのためにも無駄にはできない」果たして時間の調整ができるのか考えあぐねました。しかし、「取敢えず」という何時もの優柔不断な弱気の虫が出て、受講を決意しました。

 1979年9月8日、開講の日です。射すくめるような鋭い眼差しと毅然とした態度のグリフィン神父と、カテキスタの吉田さん、そして、最初に出た言葉が『自分との出会いの大切さ』。第一期の目次を見て、どこにも聖書やイエスの名が出て来ない。何もかにも異次元の世界に迷いこんだようでした。

 しかし回を重ねるうちに、少しずつ心の奥底に何かしら今まで体験したことのない疼きを感じました。学ぶと言うことは、新しい知識の習得と実践的な応用と考えていた私にとって、『自分を知る』ということは自分を見つめ、あるがままの自分を受け入れることだと聴いたとき、単なる学ぶことからの飛翔を促されたようです。

 以来1980年7月5日の最終日まで、今迄見過ごしていたもの、無視していたものを掘り起こすことに真剣に取り組みました。生きるとは?死ぬとは?生きがいとは?信仰とは?等々、今までの人生の中で意識的にも無意識の中にも十分に考えなければならないテーマであったものが、養成講座を通して改めて突きつけられたのです。勿論、本講座を通して直ぐに解決されるようなものではなく、むしろ今までの即物的な生き方への警鐘として受け止めました。

 講座終了後、9月より早速入門講座のリーダーとして、土曜日の夜7時から受講者を迎えることとなりました。自分自身の心の整理もできないまま、心の安らぎを求める受講者を迎える訳ですから、心配と不安の連続です。

懸命に準備をし、少しでも受講者に納得のいくものをお伝えしようと努力しましたが、その気負いが空回りし、受講者にかえって負担を強いることが度々あったように思います。 以来、20数年途切れることなく講座を受け持たせていただきました。沢山の方の受洗者に恵まれ、その都度洗礼式の感動の輪の中に自分を発見するとき、心からの喜びを体験すると共に、神様の豊かな計らいに深い感謝の思いに浸されます。

 自分の思いをお伝えすることから、受講者同士の心の啓きを通して実現される心の安らぎの場を提供することが、この講座の本質であることを実感したとき、自分自身が受講者によって育てられる姿に変わってきました。 また、グリフィン神父が継続的に実施しておりましたリーダー養成コースの補佐として、1997年から新たに参加することになりました。

 受講者として養成コースに参加してから18年の歳月が流れていましたが、身近にグリフィン神父のご馨咳に触れる機会を得ましたことは、身に余る光栄と感じております。

 18年の歳月は、神父ご自身の身辺に色々な変化があったことと思います。何よりも深い洞察に加えて、ご自身の一番弱いところを恐れなく開襟し、受講者に深い感銘を与えておられる姿に驚嘆を禁じ得ませんでした。

 8ヶ月に亘る長期のリーダー養成コースを藤沢教会の全面的なバックアップの基に三回も経験させていただきました。過る6月26日には三回目の修了派遣ミサを、派遣教会主任司祭10名の共同司式で執り行うことができました。その間、熊本地区、和歌山地区、倉敷地区のワークショップにもご一緒させていただき、多忙な中にも充実した日々を送ることができましたことは、何にもかえられない宝物を頂いた気持ちです。

 最後に、子育て真っ只中の頃から現在まで家のことは一切お任せで、講座と仕事に夢中になっている我儘な私を支えてくれた妻秀子に心から感謝しております。



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「主の備えて下さった道」を歩む  リーダー養成講座を終了して
辻堂2区 梅沢

 「主の山に備えあり」 創世記22・14

 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」 コヘレトの言葉 3・1

 昨年の11月にスタートしたリーダー養成講座の受講者35名が8ヵ月の受講を終え無事に6月26日に揃って修了証を手にすることが出来ました。

 この事は正に神さまからの恵みであったと、私は今、心から前記のみ言葉を噛みしめ感謝の気持ちでいっぱいです。

 私は1944年8月、東京都日本橋茅場町に生まれ、今年で還暦を迎えます。二歳半違いの兄がおりますが、父は私が5ヵ月の時に戦病死いたしました。その頃の子ども達にはめずらしいことではなかったのですが、幼い子ども二人を抱えた母の苦労はいかばかりだったことでしょう。母が私たちを近くの教会の教会学校に通わせてくれましたので、私たちには天のお父さまがおられる事を知ることが出来、また、大勢の兄弟姉妹方と共にとくに寂しさも味わうことなく育ったようです。

 そんな母も私が洗礼を受けることには大反対でした。でも、家の近くに隠退牧師ご夫妻経営の寺子屋のような勉強教室があり、私の生活は今思いますと既にキリストに捕らわれていたことを感じます。中学・高校時代の私の生活は、その隠退牧師ご夫妻の愛の中にドップリと浸かった生活だったような気が今いたしております。私たちの結婚式もそのご夫妻の司式によるものでした。それから数年、私たちには三人の娘が授かりました。そして、娘たちが通う幼稚園の園長先生が開拓伝道なさったプロテスタント教会に連なる生活が始まりそこで受洗いたしました。私が洗礼を受けた五年後には夫も洗礼を受ける恵みにあずかることができました。そして、それから十数年後の2001年クリスマスに私たちは夫婦揃ってカトリックへ改宗させていただいたのです。今でも私は「何と不思議な事でしょう」と思っています。

 今回、このリーダー養成講座の受講のお勧めをいただきました時には「何故、改宗して間もない私に?」との思いがあり、これは本当に神さまのご計画? それとも神さまの気まぐれか、いたずら? との思いがありました。しかし今60年の人生を、また、私たち夫婦の歩みを振り返ってみました時、いつでもどこでもイエス様が共にいてくださり、その歩んで来た道は父なる神さまがご用意してくださった道であった事が分かりました。  私は今、修了証を手に致しましたが、この先のことは全く分かっておりません。実際のところ神さまのご計画は私たち人間には計り知れないものです。たとえ、その道がデコボコで曲がりくねった道のように見えましても、それが神さまのご用意して下さった道ならば私はこれからも私たちを愛してやまない神さまに心からお慕いしお従いして、その道を歩んでいきたいと心から思い願っています。

 そして、最後に私が八ヵ月、一度の休みも無く受講出来ました事は夫の協力があってのことですし、また、誰よりも真剣で熱心で心暖かくユーモアあふれるグリフィン神父さまと大泉さんのリードあってのことだと思います。また、陰ながら祈りで支えて下さった教会の友もおりました。

 グリフィン神父さま、大泉さん、教会の友、そして我が夫よ、どうもありがとう!



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仏教とキリスト教(12) キリスト教的霊性、その4「聖書」
藤沢2区 兼子

 M・ルターはキリスト者が神と直接向き合うために聖書を信徒一人ひとりが自分の母国語で読めなくてはならぬとドイツ語訳を生んだ。神と信徒の間の余計な介在を出来るだけ排除しようと言う彼の主張は当時のローマ教会の堕落ぶりからすれば妥当なものであった。聖書を母国語で読めることは信者として素晴らしいことだ。古典語を少しでも齧った人なら、外国語で書かれた遠い昔のテキストを十分、読み解くことなど出来る筈がないと知っている。逆に、近代の西欧語が何か一つでも読める人は母国語で分かりにくかった聖書の箇所が明確になることも経験する。そもそもカトリックは第二バチカン公会議まで、信徒が新約時代のギリシャ語コイネーやラテン語が読めたとしても、自分で読んだ内容を他人に講釈するなど許されなかったのである。だからカトリックは教会も個人もプロテスタントにその分野で遅れをとっていた。とにかくカトリックの一般信徒は第二バチカン公会議後も聖書と縁が薄かったのである。しかも共同訳が誰にでも自由に読める現在、私たちが聖書を読みこなしているかと言うとそうでもない。聖書は退屈であるとか、読んでもよくわからないとか言う声をきく。聖書(新約)が読み難いのは何故なのだろうか。一つには2000年も前の異国の話で、宗教的・歴史的背景に疎ければ、霧の中にでもいるような見通しの悪さがあるだろう。さらにもう一つは福音独特の求道的発想による視点である。

もう少し分かりやすく言うとイエスが誰に向かって仰っている言葉なのか。聖書のその箇所を今、読んでいるあなた(読者) は自分とその言葉とをどう結びつけているか。イエスが憐れんで救われたのはもっぱら罪人、病人、弱者であるが、あなたは自分が罪人であり、イエスの言葉はまさに自分に向けられていると思っているのかと言うことである。隙あらばイエスを罠に嵌めようと次々と論争を挑んできたファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ・アンティパスの息のかかった連中がイエスと議論するときに、読者であるあなたは第三者的にイエスが揶揄している対象の側に立ちイエスの譬え話を聴いてはいないだろうか。

私はここで聖書を読む際に客観的・常識的な価値観によってではなくイエスが何を一番大事(なくてはならぬ)としてメッセージを発信しているかの例と、そして自分をイエスの憐れむ罪人と同定しない限りまるで間尺に合わない話の二例をあげ説明しようと思う。

先の例は「マルタとマリア」ルカ10・38 〜42の話である。ベタニアという、都の近郊の村にマリアとマルタという姉妹がおりイエスは上京のたびにそこを定宿にしていた。マルタはイエスを迎えるともてなしのために忙しく立ち働くが、マリアはといえばイエスの側にぺたっと座って話を懸命に聴いているだけだ。マルタは不機嫌になってイエスに「マリアは私にばかり働かせています。少しは私を手伝うように言ってください」と文句を言う。するとマルタにとって心外なことにイエスは「マルタよ、あなたはいろいろ思いわずらっている。しかし無くてはならぬのはただ一つだけだ。マリアはそのよい方を選んだ。それを彼女から取り去ってはいけない」と言う。どうしてイエスはマルタの言うことを退けてマリアをほめたのか。聖書は難しいとか、だから聖書はきらいと言うまったく当然な疑問に私たちは何と答えればよいか。私は次の譬え話をすることにしている。

久しぶりに旧友を訪問した女性がいるとする。彼女は積る話を聴いて貰おうと旧友を訪れたのに、その友だちはたった今、紅茶とケーキをだしてくれたと思ったら、今度は苺をとりに冷蔵庫の所にいく。そして坐ったと思った瞬間、「そうだ夕飯には二人でお寿司を食べましょう。ゆっくりしていってね、ひさしぶりだから」と電話をかけに立ち上がる。少しも席の温まる暇がない。そこで、ついに訪問者は「ちょっと、待ってよ。私が一番して欲しいのは、じっと坐って私の話を聴いてくれることよ」と注文をつける。そういう状況は案外あるし「なるほどそうか」と納得して貰えるのではないだろうか。要はそのとき相手が一番、何を望んでいるのか。それを叶えることが一番の御馳走なのだ。ましてそれが求道に関することならまさに「生死事大」である。イエスはマルタに一見、つれないように見えるが実にこの人生の一大事に関することを優先せよと仰っているのだ。

 次に「99匹の羊と一匹の迷える羊」の譬え ルカ15:1〜7。100匹の羊をもっている人が、そのうちの一匹を見失ったとする。その人は99匹をおいて迷った一匹を捜しに行き、見つけたら肩にかついで連れ帰り、周囲の人に「亡くした羊を見つけたのです。悦んで下さい」と祝うだろうというものだ。常識的な会社経営者にこの話をしたら「そんなアホな、その間に99匹がいなくなったり、狼に喰われたらどうします」と言うだろうし、教員なら「引率していた生徒が一人いなくなったら、99人の安全を確保した上で、大急ぎで引き返します」と責任感の強い所を見せるかも知れぬ。「では亡くしたんではなく、一人の子が勉強がわからない場合はどうでしょう。99人をおいて面倒みますか」と問えば、「いや、それは無理ですね」と答えるだろう。そう答える人の方が常識的なのだ。だから99匹をおいて捜しに行くというのは、まったく常識外れである。しかしこの時、この話を聴いている貴方はどちらに属するのですか。99匹の方なのかそれとも迷える一匹なのかと問えば問題はだいぶ明確になる。そうなのだ、もし99匹だと答えるならば貴方は常識的ではあるが求道者として相応しくない。そしてもし一匹の方なら貴方はイエスが何処までも探しに来て下さる罪人であり、救いを必要としているが故にいつかは必ず救われる人なのだ。



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8月の主な行事

2(月)〜5日 横浜教区召命練成会 対象小学5年〜中学2年男子

7(土)平和のための合同祈祷会 ガーデンパーティー

10(火)〜13 横浜教区高校生大会

15(日)聖母被昇天    山口神父によるカンボジア報告  午前11時

8月の中高生会のお知らせ

 夏の間、9時30のミサ後、冷たい飲み物を販売いたします。準備を手伝える方は、9時にセンター台所に来てください。

1(日)、8(日)コーヒーショップ

15(日)コーヒーショップ、 宮内神学生と一緒にバーベキュー

29(日)コーヒーショップ

8月の青年会

28(土)川崎JOCの方達と共に分かち合いの集い 藤沢教会・片瀬教会・茅ヶ崎教会の青年会合同です。センター203号室夜7時〜9時

お墓を考える(4)

 先月号の八角形にゅーすでお知らせしましたように、合葬の場所について「みその」の中の土地の可能性も出てきました。そのため7月18日(日)の各ミサで皆さまにお尋ねしました。その結果、「みその」の中に造ることを検討してみようというお声を多くいただきました。それをふまえ、葬儀を考える会では「みその」の土地の中に設置する方向で具体的な検討を進めていくことにいたしました。進捗状況については随時報告いたしますのでよろしくお願いいたします。

2004年 藤沢教会バザーのお知らせ

日 時  10月24日(日) 9:30〜14:30

テーマ 「50年の歩みに感謝」みんなでバザー

今年も藤沢教会恒例のバザーが 近づきました。「みんなでバザー」を心に、一人でも多くの方々の参加、ご協力をお願いいたします。   バザー成功のためにお祈りください。

バザーについてのお願い

  バザーのお手伝い表を8月8日に聖堂入口に貼る予定です。  お手伝い頂ける方は地区・氏名・電話番号をご記入ください。  沢山の方々のご協力をお願いいたします。

 9月3日の初金の日にバザーのパンフレットと賛助金の袋を各地区の連絡員さんにお渡し致します。よろしくお願いいたします。

バザー企画チーム



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