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八 角 形 に ゅ ー す

2005年3月6日

聖シモン&聖ユダ
藤沢カトリック教会


目次

Good bye・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・テハン

教会委員会報告

「聖コロンバン会特集」その2

祈りの集いの思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢3区 野田

生まれて初めて見た外人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢3区 山崎

虹と兎と神父様・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湘南台 野中

神の愛と恵みに思うこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長後 戸村

鵠沼ブロック新年会で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼3区 平野

鵠沼ブロック新年会の感想・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 柴田

藤沢ブロック集会報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢3区 山崎

第5地区・近隣教会福祉懇談会の開催報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福祉部 曽根

キリスト者一致祈祷会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他 荻野

横浜教区典礼研修会に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・辻堂1区 鈴木

死の典礼と信徒の取り組み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善行 岡村

合同入信志願式に参加して

教会の未来を考える会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵠沼1区 竹田

仏教とキリスト教(18) 仏教的霊性(その三)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤沢二区 兼子

合葬の園(仮称)報告

3月の主な予定

50周年行事予定

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Good bye
テハン

 伝道の書三章より、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えたものを引き抜くのに時がある。泣くのに時があり、微笑む時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 神のなさることは、すべて時がかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられました。しかし、人は神が行われる御業をはじめから終わりまで見極めることが出来ない」と書いてあります。

 私は自分でこの別れを告げる時期を決定したのではありませんが、この時期が与えられたことを感謝しております。二十年前にも私は藤沢共同体とのお別れがありましたが、その時はお別れの会が多くて、荷物が増え記念写真を撮り、大変忙しく過ごしました。しかし肯定的なところを強調して、嬉しい気持ちだったと思います。二年後、台湾に行く前に日本とのわかれの時はお別れのつらさを体験しました。

 英語の言葉「belonging」とは属するという意味です。しかし「be」と「longing」に分けると面白くなります。「be」とは「ここにいます」か「在」の意味です。今の瞬間人と共にいます。心を一つにし、集中し、相手に心を与え、最高の場合は相手との出会いになり、相手と一つになります。キリストとの出会いと似ています。

「longing」とは「期待すること」か、「求めること」か、「憧れること」の意味です。人を愛する場合、相手がいない「不在」、相手と一緒にいることにあこがれるでしょう。人間は何よりも、神をあこがれると思います。ここにいます「在」の反対はここにいない「不在」ではなくて、何もない「空な」ことです。空なところには、活力が無く、空虚なところ、憧れの無いところです。不在の場合、エネルギーか憧れかがあります。人間と人間との間には、距離があり、出会いがあっても、一時的なものですが、祈りの場合、距離を乗り越え、キリストの祈りに合わせ、永遠的なものになります。藤沢共同体の中心は司祭か信徒ではなくて、キリストであると思います。長い間藤沢共同体と共に歩んで、私にとって、恵み豊かな期間でした。それは神からすばらしい贈り物としていただいたので、お別れの時、その贈り物をささげ物として、神に返します。

 私のいただいた贈り物は、信頼、係わり合い、友情、出会いなどです。司祭であっても、人間の弱さにより、私は思い、言葉、行い、怠りによって、誰かに罪を犯したことをお許しください。今回の別れに当たり、皆様がなによりも、一人ひとりの心の中にある聖霊の導きに従うようにお祈りしております。

 最後にまた英語の言葉を用い、「good bye = God be with you」、すなわち、神はあなたと共に。



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教会委員会報告
(2月12日)

 はじめにいつものように「静思のひととき」をもったあと、テハン神父から新主任司祭になられる鈴木神父の紹介があり、以下の議題に入った。

<討議事項>

(1)信徒総会関連

13日の2005年度信徒総会についてその次第と進め方、役割等を検討・確認した

(2)テハン・ハンラティ両神父の送別会について

<報告事項>

(1)50周年関係

(2)売店関係

(3)合葬関係

(4)ブロック

(5)活動部

@壮年部

1月に行った防災訓練で、回廊からの避難は階段が危険であるとの意見があり、方法を変えることにした。聖堂側室にいる人はその場で待機し、その他の人は聖堂中央に集まって指示を待つことにする

A福祉部

B典礼部

11月20日(日)50周年記念ミサ中全員で「メサイヤ」を歌いたい。そのための練習をご復活後、堀部先生の指導ではじめる

C総務部

大規模修繕を計画に沿って実行するために辻垣さん(善行)をリーダーとする数名のチームを編成した

D教育部

3月13日(日)9時半ミサ中に初聖体を行う。またこのミサを卒業感謝ミサとする

E宣教部

1月23日(日)第五地区福音宣教委員会で互いに知り合うことを目的に「喜びのおすそわけ」をテーマに分かち合いを行い、シスター方の参加もあって実りがあった。これを藤沢教会として50周年を機会に市内の学校、施設、病院などに呼びかけて実施したい

F広報部

<その他>

2月13日(日)の入信志願式には藤沢教会からはご復活に洗礼を希望されている11名の方が参加する



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「聖コロンバン会特集」その2

日本での宣教

 中国の政情不安が高まり、布教活動が実質的に制約される中で聖コロンバン会は他の極東諸国に目を向けることになる。既に1934年頃東京・鎌倉などで布教の経験があったオブライエン神父とドイル神父、それにスイニー神父が加わり1948年聖コロンバン会としての日本での活動が開始された。さっそく東京渋谷に会の本部を建設、1949年東京豊島に小教区を開設している。当時、聖コロンバン会の日本での仕事は地域教会を育てる仕事であった。そこで、会は担当各地に土地を買い、教区名義で教会を建てていった。聖コロンバン会を紹介した資料に「まもなく神奈川県の湘南地区、千葉県、和歌山県、そして熊本県で働くようになった」と記されていることから、何らかの理由で宣教会の担当地区がそのように決められていったのであろう。湘南地区では逗子・藤沢・平塚・大磯・二宮・真鶴などの教会建設に係わっている。もっとも「会の活動は小教区の仕事に限られているわけでなく、会員のほとんどは信者の共同体で働き、霊的指導を行い家族をはじめ若者、お年寄り、ひとり暮しの人々の精神面での世話をしている」と紹介されているように、一時は「約45の小教区で働き、そこに所属する1万5千人の信者の世話をしている」ほどに多くの司祭を各地に送り日本の宣教司牧に大きく貢献した。

 前号でも述べたとおり、当初司祭人事や教会建設等を含む宣教司牧すべてを教区から委託されていたものが、1980年代半ばに教区への宣教司祭派遣に変わっていった。いまでも東京教区4名、横浜教区5名、大阪教区3名、福岡教区6名の合計18名の司祭が活動している。

藤沢教会との係わり

 1955年、前記の流れの中で藤沢教会は建設された。

「その後まもなく管区長ドイル神父様は、藤沢駅から歩いて、凡そ十五分、現在の市役所がある裏手の御幣山に、最初の土地を求めました。しかし、そこは、交通の便はよく、環境として申し分なかったわけですが、水道をひくのに困難なため、代わって、オブライエン神父様が、駅の南口にある鵠沼の現在地、約千二百坪を買ったわけです」10年前の40周年記念誌「ともに」に掲載されている高木一雄氏からの引用文である。 当時、片瀬教会には1000名を超える信徒が在籍していたようで、教会報「丘の上」創刊号に「僕が片瀬教会に行き出した頃はあの様に聖堂外に迄あふれ出て御ミサに預かることはなかったものです」と関根氏が書かれている。片瀬教会は1939年に献堂式を挙げ、15年間で収容しきれないほどに発展していた。このような状況の中で宣教会の方針と小教区の要望が合致したものと思われる。

 片瀬教会から移籍した信徒は300名。以来50年、11名の主任司祭と24名の助任司祭、合計35名の神父様方のご苦労、ご活躍もあって、今日の藤沢教会があるものといえよう。

 荒井司教による献堂式

聖コロンバン会協力者会について

 聖コロンバン会の日本での活動は主として宣教師の出身国、アイルランド、アメリカ、オーストラリアなどの信徒たちからの寄付が支えとなっていた。藤沢教会の建設費もアメリカの一婦人からの寄付金がその一部となったと記録されている。しかし、社会情勢が大きく変わる中で、日本の信徒も「祈り・犠牲・献金」という形で聖コロンバン会の宣教活動に積極的な協力が要望され、1995年11月協力者会が組織化された。会員数は全国では600名(正確には619名)藤沢教会では174名で、毎月一口千円の会費を納入いただいている。日本の事務局はこれまで当教会に置かれていたが、このたびの司祭異動により世田谷の本部に移行される。

なお、当教会協力者会は4月16日(土)聖コロンバン会支援のためのチャリティコンサートを企画している。創設から50年間お世話になった宣教会のために感謝を込めて多くの参加を期待したい。



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祈りの集いの思い出
藤沢3区 野田

 「良かったことを見せてください」と毎日祈り黙想する。イエスを親しく知るようになるために。

 しかし、時には私の前にはだかる諸々の感情に遮られいつもすんなりといくとは限りません。そのような時、ハンラティ神父様は、当然起こり得る感情なので心配しないよう説明されホッとした事を覚えています。

一方、それでも当時の約束は大変厳しく感じられ、とにかく、@毎日必ず祈ること。A講座には欠席しないこと(週一回)。いざ決心はしたものの、不安の中でのスタートでした。

 神父様、グループの方たちの関わりの中で進められていくうちに、とりわけ神父様の情熱、一生懸命さがひしひしと伝わってきて、これは生半可なことではいけないと自覚した次第であります。プログラムの一つである「分かち合い」今でこそよく見聞きする言葉ですが、当時は余りよく真意が理解できず、戸惑いや、苦手意識があって負担に感じもいたしましたが、回を重ねるうちに他の人の分かち合いに励まされ助けとなった体験もあります。やがて半年間の第一回(17年前) の祈りの集いの講座も終わり、神父様は休暇に入られ、その後シスター国広と数人の仲間で月一回集まり聖書を祈っておりました。祈りのうちに促されて共同体での奉仕活動にも参加させていただきました。色々と学ばせていただきながら、充実した時を過ごしておりました。

 その頃、主人の受洗のお恵みをいただき、冒頭の祈りが印象深く心に響きました。その時、常々神父様のいわれる「神様が働いてくださる」こと「神様のなさりたいというご意志」のお話が浮かびました。それは神は私たちが自分の力によってではなく、イエスを通して変えられるように求められている。また私たちが神に明け渡すと、神はいつでも聖霊の力と恵みを通して私たちのうちに働いてくださる、と。

 ちょうど一年前"聖書を祈る"の講座の呼びかけがあり、祈りの集いシリーズからすっかり遠ざかっていた私は少々気も重かったのですが、ハンラティ神父様の「いつ藤沢に戻ってきたか?」「どこかへ転出したと思ったよ!」の一言ですっかり気持ちが楽になり参加させていただくことに。そこで、何と今回がハンラティ神父様の講座が最後になると聞かされ驚きました。はからずも最初と最後の関わらせていただけたこと

に感謝と共に感慨深い思いでいっぱいであります。残り少ない毎回のお話には、神父様の優しさ、深さ、寛大さが滲み出ていることを強く感じるのは多分私だけではないだろうと思っております。

そして改めて思うことは私の日々の生活の原点がこの"祈り"の導きにあったと確信しております。ハンラティ神父様長い間のご指導本当にありがとうございました。どうぞご帰国後もいつまでもお元気でお過ごしになられますようお祈り申しあげます。

 神様の恵みと祝福が神父様の上に豊かでありますように。感謝をこめて。



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生まれて初めて見た外人
藤沢3区 山崎

 19歳の春、私は聖母訪問会が経営する看護学校に入学した。今から45年前であった。そこは朝起きてから夜ねるまで修道院なみの規則と時間割で、朝夕の祈りの他に6時半からの御ミサにあずかる事が義務づけられていた。

 キリスト教の何んたるかも、ミサ聖祭の意味もわからず、ただその頃人気の高かったオードリー・ヘップバーンの尼僧物語に憧れて希望しただけの学校であったが、紆余曲折はあったにしろ、私がカトリックに足を踏み入れた第一歩であった。

 初めてミサに参加した時、神父様のやや薄いグレーの髪の後頭部、しかし前を向かわれた時は、眉目秀麗、美少年といった風情、しかし顔は真っ赤、白人イコール白肌をイメージしていたので隣りにすわっていた学友に「ねぇあの外人さん、若いの? 年寄り? どっち」と聞いたら、友も同じ思いだったらしく「どっちだろうね」と二人で笑いを噛みころしていた思い出がある。

 それがハンラティ神父様との最初の出合いであった。(因みにその頃神父様は20代後半、アルコールに弱くブドウ酒で赤くなることを大部経てから知った)

 私は新潟の山奥から、友は岩手の北上高校の卒業生、二人共外人をみるのが初めてであり、カトリックに縁がなく野放図に育った私達にとっては聖金曜日は一番辛い日であった。

板の台にひざまずき、一時間も黙想させられると膝は痛いし、頭はあらぬことばかりうかんでくる。苦痛以外の何ものでもなかった。

 ある日、二人でさぼろうかということになり、電気を消して真っ暗の中で文学論、人生論を語っていた。バレているとも知らずに。

 翌朝神父様にお会いすると早々に、「おー山崎さん、昨日はどうしましたか」私はとっさに「お腹こわした」と答えた所「おーHさんと一緒に」と笑っておられた、あの笑顔一生忘れることはないでしょう。

 若き日の神父様は現在より、背も高く横幅は二回りは大きかったでしょうか、先月の「八角形にゅーす」のお写真は本当なんです。

 週2回の英語教師、公教要理等、司祭職の他に学院のために時間をさかれることが多く、いずれも楽しい授業であった。

 スポーツマンでバスケットが大好き、放課後や休日に私達が教室にいると、あの長いスータンのままボールを抱えて「遊びましょう」と誘いにこられる。病室と山に囲まれた狭いグランドであったが、そこは神父様の祈りの場であり、私達の遊び場であった。

 思い出のつきない日々であったがその間、神父様の怒ったお顔を見たことがない。感情を表わさず、いつも柔和、エコひいきもなく誰にも平等、これはお国柄なのかコロンバン会の方針なのか、ご本人の性格によるものか不明であるが、多分全部なのでしょう。

 その後私は助産婦として途上国で働くというのが夢であったので、県の学校に進学し、神奈川県に就職、いつか教会からも遠ざかっていた。

 風の便りにハンラティ神父様は御病気で、お国に帰られたと聞き、日本にいらっしゃれば何時かどこかでお会いできるという気持があったが、アイルランドでは二度とお目にかかることはないと、一抹の淋しさを覚え、久しぶりにロザリオを手にした。

 そして5年前、アイルランド巡礼の旅でコロンバン会本部に立ち寄り、お会いした時はお互いにびっくり、私は内心もう…天国に召されたか病床に臥せっておられるのではと案じていたが、お元気で私達の昼食の準備をして待っていてくださった。

 コロンバン会本部は広大な牧草地や畑の中にあり、修道院は静寂そのもの、夏は涼しくさわやか、冬は東京と同じ位というが暖房は完備しており、神父様方にとっては日本のむし暑い夏が如何に苛酷なものか、狭くて騒々しい街や司祭館、言葉の壁や食事の相違など、大きな大きな犠牲の上に成り立っていることを初めて知り、本当に頭のさがる思いであった。

 神父様も日本を去るに当って万感の思いがあることでしょう。45年も日本の宣教につくされ、何の恩恵にもあずからず。しかし神様からのお恵みはたくさんあふれていることでしょう。 また会う日まで感謝のうちに。



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虹と兎と神父様
湘南台 野中

 ちょっと変わった表題ですが、神父様はもちろんテハン神父様。兎は皆さんよくご存知のお聖堂出入口上に、つい先日まで飾ってあった沢山の折り紙の兎のこと。虹については後で述べましょう。

 2002年7月のある日、教会委員長の片桐さんから私に電話があり「兎の折り紙、何かありませんか」と。8月平和旬間中の祈りの集いに皆で折って、ミサのときにお捧げしたいとのこと。何で鶴でなく兎なのかというと、平和を願う熱い想いを綴った高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」によるとのお話でした。

 それならと折り紙暦30年近い私は、早速に折りよさそうな作品を数点持参。その中から神父様が選ばれたのが、あの伝承の兎でした。 日曜学校の先生方のご指導もあり、これなら折れると子供たちが多数参加。集いの日の朝、私も飾りつけのお手伝いにまいりましたが、大きなブルーのパネルに「いのりをこめて」と書かれた文字の周囲は、色とりどりの兎で埋め尽くされました。また兎でPEACEの文字をかたどった美しいパネルもミサの祭壇に供えられました。

 出入口上の作品は好評で、当初3ヵ月位で外す予定と聞いていましたが、テハン神父様のご希望で2年半も飾られていました。このことは日本折り紙協会発行の月刊「おりがみ」(発行部数1万)に写真入りで掲載され、世界40カ国の人が読んだことになります。

 次に虹についてお話しましょう。2004年9月の湘南台センター開設10周年記念行事に「折り紙でみんなが参加できるものを」とのテハン神父様のご希望をセンタースタッフから聞いたのが7月末。日数のない、忙しいときに限って仕事を頼まれる。ああ神様、時間をください! アイデアをくださいと、道を歩きながら祈っていると、フッと頭に浮かんだのが虹。七色の小さなパーツをたくさん組み合わせて作るその作品は、折り紙の世界では有名で、私も過去に何度も教えたことがあります。でも日頃、折り紙をしない人達まで巻き込んでのプロジェクトは初めてです。計算するとパーツの必要数は250枚。センタースタッフと相談して、藤沢や湘南台の教会を訪れる方に一、二枚ずつ、なるべく大勢に折っていただくことにして活動開始。ある日、友人に訊かれました。「あの小さいのを集めて何ができるの?」と。「虹ですよ、楽しみにしててくださいな」と私。

 まとめは折り紙サークル全員でしました。「希望の虹」と名づけられた60×90センチの見事なパネル作品は祝賀当日の記念ミサで可愛い子供たちの手によって、祭壇に運ばれました。たくさんの方の感謝と、未来への希望を込めた共同作品でした。一つ一つのパーツは小さなつまらないものでも、集まるとこんなに素晴らしい作品になる。それは教会という共同体に似ています。テハン神父様は私たちにそのことを気づいてほしかったのだと思います。

 後日談があります。虹の原作者は秋田市在住の斎藤静夫先生。教会のホームページに作品とお名前を載せることでお電話すると、快諾くださり、今は聖園学園短期大学教授で、藤沢の聖園にはお知り合いのシスターもおられるそうです。

 もう一つは「月刊おりがみ」の記事を見た千葉市在住の方が、思いがけず「ガラスのうさぎ」の新版を私に送ってくださったこと。その方と著者の高木さんは同じ市内に住む高校の同級生。早速お話されたようで、著者本人からの礼状も届きました。これは参加した教会の皆さんへの礼状でもあります。ちなみに高木さんは以前、鵠沼海岸に住んでおられた由。人のご縁とは不思議なものですね。



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神の愛と恵みに思うこと
長後 戸村

 時は1998年12月24日、私の中ではクリスマスイヴという意識すらないままに、初めて訪れた教会は、折しもミサを待ちきれないでいる、子供たちの元気な歓声に包まれていたように思います。

 当時、余命の宣告を受けた夫のことで頭が一杯で、悲しさに打ち挫かれ必死に耐えつつ何とか一日でも早くホスピスに転院させたくて奔走している矢先でした。友人に同伴してもらい、やっとの思いでお伺いできた教会です。その日は暗く寒い冬の日でした。シスターにご挨拶を済ませ、心も半ば軽やかになって帰る途中、呼び戻され応接間に招き入れられました。やがて味・色・香りと三拍子揃った暖かいお茶の接待を受けほっとしながら、しみじみとしているところへテハン神父様がにこやかな笑顔でお見えになり、今思うに聖霊の働きの神秘を感じずにはいられません。

 集中治療室での夫の受洗に際しては同伴した友人の立会いのもと、素朴に行われた洗礼に夫は、人生最高の輝く笑みで応えていました。テハン神父様の温かい計らいもあって主任司祭のバーガー神父様とお祈りをされて与った賜物であり、真に稀なる恵み深い受洗であったことを思うとき、新たな感動がよみがえり、感謝のなかにいつも昨日のことのように新鮮に想い出されます。後で駆けつけた息子から「クリスマスおめでとう、洗礼を受けたそうですね」の問い掛けに対し夫は「ありがとう、良かった」とはっきり喜びを伝えました。

 臨終の際には、肉親の弟の声には反応せず、妻の私の声にのみ反応したこと、どうしても医師では駄目で私の手によって安心したかのようにしっかりと目を閉じたことなどから、掛けがえのない別れを思い知らされたことでした。一粒の麦は地に落ちて多くの実を結ぶ譬えのとおり、夫の死を迎えることの比類なき体験を通して学んだというよりは、気付かされた十字架上の主の愛と苦しみ、さらには忍耐と限りない慈しみに見守られながら、復活された主と共に今を生かされている喜びに浸りながら神秘の数々を味わうこととなり、信仰の大いなる真の恵みに与ることができたように思います。テハン神父様を通して受けた特別な神の愛の数々は、時を経ても日増しに、より一層輝きを新たにして蘇ることでしょう。

 藤沢カトリック教会50年の長い歩みの中でコロンバン会からいただいた恵みの大きさを思うとき、ほんの終わりに呼ばれた者としてはつくづく沢山の恵みを受けた感謝と共に、また新しい明日への第一歩へ向かって恐れず萎まないように聖霊の働きを信じ、弱くのろまな足取りながらもなんとか方向性を見失うことのないように精一杯生きていきます。心から有り難うございました。



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鵠沼ブロック新年会で
鵠沼3区 平野

 恒例の新年会は1月30日11時から、50数名の参加をえてセンターホールで行われました。「今年は一切を男性にお任せください」という触れ込みで、総ての準備が進められ、刺身もそばも、サンドウイッチもボルシチも、オール特製の手作り。大好評でした。圧巻は何時編成されたのか、「レオハワイアン」の生演奏。聴衆を唸らせる出来映えに加えてアロハオエの合唱が会場を沸かせました。

 この日、9時30分のミサの後に、テハン主任神父から、「藤沢教会は、御復活祭の後に、聖コロンバン会から横浜教区へ、移管されます」と正式に発表がありました。また、日本での48年間に及ぶ宣教司牧の活動を終えて復活祭の翌日に、故国アイルランドへの旅立ちを控えたハンラティ神父から、この集まりの初めに、藤沢教会への熱き想いが語られました。この移管の件は、新年会の各テーブルでは、話題としては意識的に避けられたようでした。

宴の終わりに、閉会の辞を指名された私は、「めでたい席ではありますが」と断って、概ね次のような主旨の話をしました。聖コロンバン会に感謝をこめて。

 藤沢教会は、市の最も便利な中央に位置し、私ども共同体のかなりの人たちにとっても、生活の中心部にあります。また、自分に出来る何かをすることで、何時も教会に役立ちたい、繋がっていたいと考えている人にとっては、霊的生活の中心であり、生き甲斐の場所でもあります。ここでは、そのような信者の模範を多く見かけることができます。

 日本に聖コロンバン会が来て57年になります。この会が所轄する他の教会のことは、多くを知りませんが、藤沢教会は、今年、献堂・組み方向・50・周年を祝います。日本の聖コロンバン会の歴史は藤沢教会の歴史ともいえるのでしょうか。この50年の間に、大勢の宣教師のご指導を戴きました。またこの50年間に、聖堂は山を削って建て直され、信者の数は大幅に増えました。信徒会館も三つの庭園も完備して、広く内外に活用されるなど、今や、横浜教区の柱として頼りにされるまでになりました。このような成果は、聖コロンバン会の宣教師たちの厚い信仰、燃える人類愛、高い見識、堪能な日本語、不撓の努力の賜物に他ならないと考えます。

 日本の教会の歴史の中では、昭和2年、長崎教区が日本最初の邦人独立教区になった時と、その翌年、大分・宮崎県が分離して、宮崎布教地として独立した時、移管が行なわれたそうです。(廣瀬敦子著『ハルブ神父の生涯』ご参照)その時、長崎を去ることになったパリ外国宣教会の司祭たち全員は、立派に使命を果たし終えたことに満足し、未練を残さず、神に感謝しながら、次の任地へ向かったと聞きました。ここ、私たちのコロンバン会の宣教師たちも、立派に使命を果たしました。その満足感を胸に、神に感謝しながら、笑顔で藤沢を去っていくことでしょう。未だ、さよならを申し上げるタイミングではありませんが、共同体の皆さんは、深い尊敬と親愛の心で、「有難うございました」の一言を胸に秘めていることでしょう。でも、感謝以上に大事なことは、神が遣わす次の新しい指導者の許で、これまで同様に、心の安らぎと喜びの日々を送ることだと思います。彼等は、このことを知りえた時に、今までの労が充分に報いられたと悟るでしょう。

 話を終わって、私は、ふと、長崎県そとめの野道の墓地に眠るド・ロ神父(1840〜1914)を想いました。神父はパリ外国宣教会の宣教師で、今も、そとめの太陽と慕われ、尊敬されています。その墓碑には、次のように刻まれています。

神の選べる者、その労や空しからず イザヤの書」



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鵠沼ブロック新年会の感想
鵠沼1区 柴田

 1月30日、鵠沼ブロック新年会がありました。連絡員のお役目も皆様のお蔭で何とか無事に終り、ホッとした気分で参加させていただきました。

 テハン神父様、ハンラティ神父様をお迎えし、斎藤豊さんにトースト・マスターをお願いして乾杯。和やかに始まった新年会はなんと楽しく、素晴らしかったことでしょう! とは言え正直なところ、思いがけな

い「お知らせ」があった後ですから一抹の寂しさも伴いましたが・・。

 でも、あまりにも楽しいひと時でしたから、少し様子をお伝えしたいと思います。

 まず特筆すべきは、今年は男性の皆様が私たち女性群を招待してくださったことです。細かいプラン、サービスから後片付けにいたるまで全てを含めてです。飲み物は、ビール、ワイン、日本酒、そして「どぶろく」まで顔をそろえました。大皿に盛られたお料理は、丹精込めてお手作りの各種お刺身、手打ちそば(そば湯つきです!)、ボルシチ、などなど。しかも、どれもこれも「美味しい」の一語に尽きるのでした。否、一語では足りないのですが、下手に言葉を並べると、かえって遠ざかってしまいそうなのです。

 私がひとつ、残念だったのはワインのグラスが空いたので、皆様が美味しい、美味しい、と召し上がっていらした「どぶろく」を、と思ったら一足違いで、スーッと瓶がどこかへ行ってしまって、飲めなかったことです。(「アーッ」とか叫べばよかったのに…)

 歓談の輪も広がり、くつろいだ空気に満たされたころ、ハワイアン・バンドの登場となりました。出演なさったのは、小藤さんご夫妻、八子さんご夫妻、窪田さん、福井さん、そして特別ゲストとして竹田美穂子さん、斎藤豊さんが参加なさいました。

「さんご礁の彼方」「バリバリの浜辺」をはじめ、古き良き日を思い出す懐かしいナンバーの数々が演奏されました。普段、どちらかと言えばいかめしい感じの方々が、それぞれウクレレを抱き、エレキを抱えて、本当に楽しそうに演奏してくださり、思いがけない親しみを感じさせてくださいましたし、ビング・クロス

ビーを偲ばせる歌声まで入ってびっくりでした。マラカスやスチールギターの音が雰囲気を盛り上げ、途中では参加者全員、声を合わせてアロハ・オエを歌いました。竹田さんはご高齢もなんのその、三年前からウクレレをお始めになったそうで、ショパンの別れの曲をソロで弾いてくださいました。斎藤さんはハワイでウクレレを買っていらした由、お二人に大変、元気をいただいたと思います。上田さんのほど良いジョーク交じりの司会も、この会をスムーズに運ぶ大きな力となりました。

 こうして限りなく楽しい会も終りに近づき最後は「ごらんよ、空の鳥」を合唱して閉会。どなたのお顔にも明るく暖かい微笑みが浮かんでいました。私は前の日に偶然読んだコヘレトの言葉(4章9節〜12節)を思い出し、胸が熱くなりました。

 神父様方は藤沢教会からいらっしゃらなくなっても、お互いの祈り、想い、を通じていつまでも強い絆で結ばれて、共に歩むのだ、ということも神父様のお話から感じ、色々な意味で本当に楽しく、実りある新年会であったと、幸せ一杯な暖かさに包まれて家路につくことができました。沢山のお働きをいただいた男性の皆様、そしてご参加の皆様に心から感謝申しあげます。



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藤沢ブロック集会報告
藤沢3区 山崎

 2月6日11時より、センターホールで本年度第一回の藤沢ブロック集会を持ちました。テハン神父様の聖霊のすばらしさ(霊的な贈り物とは、心に残る物です)についてのお話しに続く集会でしたが、50名の方が出席くださり嬉しく思っております。

 議題は教会報告、福祉部報告、活動計画などであったが、本年度の活動計画は3点、

1.ミサ当番について

2.典礼チームを設けて実施する

典礼チームはブロック担当ミサの対応と要員の充実を図るという目的で、共同祈願、朗読など予定の人が急に休まれた時、その場ですぐ、誰もが参加できるようにする。

3.隣組活動は地図の作成は終ったが、それを活用して集会や分ち合いを持つ中で、宣教を目的として行う。

 以上の点から、今後とも皆で力を合わせ、教会のために、共同体のために自分たちのできることを分担してやって行きましょう。

 現在、教会は過渡期にきています。神父様方の高齢化、減少に伴い、私たちの成すべきことは何か? もう恵みを受けるだけの教会ではなく、相互が協力、助け合って、司祭を支える時期にきている、ということを再度みつめ直す必要があるように思われます。



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第5地区・近隣教会福祉懇談会の開催報告
福祉部 曽根

 1月16日(日)センターホールにて近隣教会福祉懇談会を開催致しました。

 私ども藤沢教会は10年前に福祉部を創りました。当初はまず発足することが肝要と考え、何をするかは歩きながら模索していこうと思いました。

 振り返ってみますと、いろいろやってきたようで実は本当に必要なところに手が届いていないのではないかとの思いをいだいておりました。近隣の他の教会の中にも同じような思い、悩みを心にかかえつつ福祉活動をすすめていらっしやるグループもあるかと思い、そこで、第5地区・近隣の教会の皆様と情報交換・意見交換をしようとこの懇談会を企画し、この集いを通して今後の福祉活動に役立つものがお互いに得られればと思って開催をさせていただきました。これが梅村司教様が目指しておられる小教区を超えた活動の一つのきっかけになればと願っています。

 出席した教会は、片瀬・鍛冶ヶ谷・戸塚・雪ノ下・由比ガ浜・大船そして藤沢の7教会で約50名の方が集まり、それぞれの福祉部から現在活動している状況を報告していただきました。他グループの沢山の活動には大変おどろきましたし、大変刺激にもなりました。次回の開催をお約束して散会となりました。お忙しい中、ご出席いただき、貴重なアドバイスいただきましたテハン、久我両神父様に心から感謝申し上げます。

なお、懇談会に参加された、おふたりの方から感想が寄せられましたので、ご紹介させていただき報告にいたしたいと存じます。

<鍛冶ヶ谷教会>

 お誘いを受けて、2回目、2年半ぶりという福祉懇談会に出席しました。由比ガ浜教会の方の言葉を借りれば、私の教会も発展途上教会です。私自身経験浅く、活動に関わって2年目の私にとつて願ってもない機会でした。なにしろ、一つひとつ教会を訪ねて聴き回る必要がなくなったからです。委員会ができて間もない私の教会では、先んじて個々一人ひとりがしている活動があります。多くの教会では組織的になされていることや、当然なことではありますが、教会が置かれている環境に応じた活動の具体例などが良く分かりました。そして、同じような発展途上の教会には、ホッとする親近感を覚えました。
 報告や意見を聴いているうち、具体的活動を知るほかに「福祉」についての考えが深まる恩恵もありました。「福祉」をイメージするとき、「健常者が障害者を助ける」という、健常者と障害者の関係が浮かびませんか。一つの例として、障害者を思い遣る心から「障害」を仮名交じりの「障がい」と表記する考えが出てきているのではないかと思います。福祉活動を人権運動の一つとして考えている私は、同じ力関係ではないにしろ、互いに支え合う関係であると思い、実感しています。こだわっていた言葉の疑問も解けました。
 福祉に理解が足りない司祭の存在に触れた発言では、梅村司教が手話つきミサのクレームを聞いて、「理解が足りない」と諌めるのではなく、ご自身が手話を学んで、手話ミサをなさるようになったという福祉の手本を思い出しました。このボスがいらっしやるのだから大丈夫。司教様が示された、この「謙遜」は福祉活動の必須条件と心掛けています。
 教区の委員からの情報提供はありがたかったです。持ち回りで一年に一度、開くことが決まりました。分担することと各教会の環境を知ることの点で、持ち回りは大賛成です。
うちの教会なりのバリアフリー化をお見せすることもできます。お待ちしています。

<片瀬教会>

 私は祈りも福祉もまだ片言です。
 この会に集まられた方々のいろいろな形の福祉への取り組みを、お聞きして勉強させていただきました。それぞれの取り組みの中で日曜学校の子供たちの年末街頭募金の活動が印象に残りました。福祉の活動は自分だけでなく、まわりの人が気軽に参加できるような工夫も必要なのでしょうね。まだ私は人前で福祉という言葉を口にするのには慣れていません。
 右手を差し伸べるときに左手には知らせない。私はふと気がつくと、臍を噛む思いです。でも、今日は右手に大きな輪ができたのですね。「この会を呼びかけてくれた皆さんに感謝、それに応えて集まってくれた人たちに感謝、場をかえての新しい共同体に感謝、これだけ仲間がいることを見せていただき感謝」久我神父様の終わりの言葉に感謝。



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キリスト者一致祈祷会
その他 荻野

 1月下旬には、全世界のカトリック教会とプロテスタント各派、聖公会、東方正教会がキリスト者の一致のために祈りを合わせる「キリスト教一致祈祷週間」があります。はじめは一つであった教会は、およそ2000年の長い歴史の中で分裂し、ときには敵対し、血を流した歴史もありました。藤沢市内キリスト教連絡会では「一致祈祷週間」の土曜日に「キリスト者一致のための合同祈祷会」を開催してきました。今年は1月22日(土)に、藤沢YMCAを会場にして開かれ、20を超える教会、修道会、キリスト教団体から、70ほどの出席者が与えられました。教会以外の場所で市内キリスト教連絡会の祈祷会が開かれたのは初めてです。第1部の祈祷会(みことばの祭儀)が藤沢YMCAの天野館長による司式、藤沢バプテスト教会(日本バプテスト連盟)の小川宏嗣牧師による奨励(説教)によって執り行われました。小川牧師は「ひとつになること」という題で『エフェソの信徒への手紙』4章1〜6節にもとづいて「柔和で、寛容な心を持ち、愛をもって忍耐し、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致をめざすこと」を説かれました。奨励ののち、参加教会の代表者による「とりなしの祈り(共同祈願)」がなされました。第2部では飲み物とお菓子が出され、懇親会となりました。参加教会の近況をお互いに紹介し合うよい交わりの機会となりました。

 キリスト者の一致をめざすエキュムニズム運動(教会一致運動)は、長いキリスト教の歴史からみると、まだはじまったばかりといえます。私たちは藤沢の地域で教会・教派のちがいを越えて、同じ神、同じキリスト、同じ聖書を信仰のよりどころとする兄弟姉妹としてよき交わりを深めていきたいものです。藤沢市内キリスト教連絡会の働きのためにお祈りくださいますようにお願いいたします。



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横浜教区典礼研修会に参加して
辻堂1区 鈴木

 横浜教区典礼研修会が今年も2月11日藤沢教会を会場に開催されました。今回のテーマは『典礼における共同体の奉仕』、午前中はカンペンハウド神父様の講義、午後は「入信の秘蹟」「死者のための典礼」「ミサのない主日の集会祭儀」について、具体的な教会の事例を中心に教区典礼委員の方々からの話と質疑応答があり、最後にミサがささげられました。(「死者のための典礼」は藤沢教会で現在行なわれていることを岡村さんが紹介されました)「日曜日に教会でミサに集まった共同体は典礼共同体である。しかし典礼は、はたらきの泉ではあっても、教会の全てではない。イエスの食卓は、出発であり目的であるが全てではない。信仰共同体の第一の目的は、証しであり宣教であり、単独の共同体は無く、必ず、他の共同体と手を携えてやっていく」―カンペンハウド神父様は、私たちが普段当り前と思っているが故に忘れてしまいがちな、しかし大切なことを分り易く話して下さいました。共同体には・信仰を伝える・真理と霊による礼拝を神にささげる・恵まれない人への援助の3つの使命があること、それは奉仕者だけでなく共同体全体が関わり果たす使命であることを、私たちは知ってはいても、自分がその1人であることを意識して実行しているか、と問われた時、すぐに「はい」と返事ができるでしょうか。

現在横浜教区でも共同宣教司牧が進められて来ています。2月発行の横浜教区報にも梅村司教様が書いていらっしゃいますが、カンペンハウド神父様も共同宣教司牧についてお話になりました。「司祭の数が少なくなったからお手伝い下さい、というのではない。洗礼と堅信の恵みを生かすために、司祭と信徒がともに考え一緒にやっていく。賜物(カリスマ)は沢山あり、司祭が持っていないものもある。信徒がやってくれれば共同体は元気になる」と、司祭・信徒の数の多少ではなく、誰かが一人でするのではなく、信徒が司祭に全てを期待するのではなく、共同体の使命を果たすために、チームを組んで協力していくことの大切さ、そこから素晴らしいものが生まれることを示してくださいました。チームを組み進めていくことは、典礼だけでなく、共同体のあらゆる場面においてとても大事なことであり、またそれぞれが独立しているのではなく繋がっていることは言うまでもありません。共同宣教司牧に戸惑いや不安を覚えるのではなく、「共同体に仕える為に、奉仕者になる」ことを忘れずにともに歩むことが、これまで以上に私たちに求められていると感じます。関わる喜びがまた新たなエネルギーとなって、教会は未来へと続いていくのだと思います。



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死の典礼と信徒の取り組み
善行 岡村

(横浜教区典礼研修会にて)

 納棺に始まり納骨に終わる葬儀は、私たちとその人の生きているときと死んでからの、一連の交わりの一部分に過ぎません。

 私たちにとって典礼は、救い主の死と復活という福音に仕えることです。私たちはいつどこでも、誰に対しても、この福音を述べ伝えなければなりません。

 葬儀もその一つとして考えなければならないでしょう。しかし日本に生きる私たちは、死んだ者と生きている者との交わりに、「葬る」と「弔う」という二つの異なるはたらきの言葉が使われていることにも心を留める必要があります。

 藤沢教会の信徒たちの取り組みをお話する前に、わたしは藤沢教会が、あまりにも多い信徒共同体であるので皆さんの参考になる話ができるかどうか、心配しております。

 それで、葬儀の取り組みについてお話する前に、なるべく簡単に藤沢教会がどのようにして育てられたか、お話したほうがよいと思いました。

20年以上前に、コロンバン会の英断で主任司祭が、信徒たちに宣教を担わせる試みをはじめました。七、八人の信徒を招いて、宣教師のために作られたコロンバン会の「キリスト教講座」のテキストを見せ、やってみないかとすすめたのです。

 それは、いきなり洗礼を目的とする入門講座ではありません。キリスト教に関心を抱く人たちにも開かれた、グループでエクササイズしながら進むテキストでした。

 毎月一度、司祭はその実践の現場から、グループの世話をしているリーダーの信徒たちを呼び集め、現場で感じたことや困ったこと、発見したことなどを話させ皆で聞いて分かち合いをしました。司祭はリーダーたちの体験を認め受け入れて決して批判はしません。ただ足りないことを示唆してサポートするだけでした。それが信徒たちを勇気付け新たな出発をさせました。

 弟子たちを人々の中へ送りだしたイエスも、戻ってきた弟子たちに同じようになさったでしょう。このような分かち合いが、共同体の育成にはきっと必要なのです。その後、リーダー養成コースを修了した信徒も加わり40人ほどになりました。講座を担当しているのは今十人ほどですが、分かち合いにはその他の人たちも参加するようになりました。

 そして、その他の信徒たちにも、講座に参加して宣教の現場を体験するようにすすめています。これらによって福音を伝えることに目覚めた信徒が共同体のあちこちに居て、必要に応じていろいろな活動が自発的に生まれてきました。それは後ほどご紹介します。

 もう一つどうしてもお話しなければならないブロックの活動があります。あまりにも多い信徒たちの司牧のため、信徒の住む地区をいくつかづつまとめて、五つのブロックに分けました。そしてミサと信徒全体の行事、建物の掃除、バザーや敬老の日などを、一年を五つに区切りブロックの持ちまわりで担当することにしました。この他に各ブロックは、それぞれ独自の年間活動計画をたてて地区で活動しています。学習、見学、黙想、遠足などで、活動によっては合同・交流があります。いよいよ本論にはいりますが、藤沢教会にはその自発的な活動として「葬儀を考える会」があります。それは十年ほど前にカンペンハウド神父の「葬儀典礼の勉強会」に触発されてはじまりました勉強会です。「臨終から葬儀まで」というパンフレットをつくり毎年、死者の月の11月に、全信徒を相手に葬儀の研修をするフォーラム(勉強会)を開いてきました。また最近は「納棺から火葬場まで」というパンフレットをつくりフォーラムで実習し大層好評でした。引き続き「お墓を考える会」が生まれており、今、合葬の方向で計画を話し合っているところです。

 さて死の知らせを教会が受け取ると典礼部の担当者が動き出し、当番ブロックと死者の地区に連絡し信徒を集めます。オルガン担当者はオルガニストにお願いしますが緊急のことで対応が難しく今対策を考えています。

 遺体は、住いに置くことが難しい事情が多く、病院から直接通夜をする教会に運ばれます。そこで納棺を行い、遺族との話し合いや葬儀社との打ち合わせを行うことになります。

 教会は事務所を通して全体をサポートしますが、通夜と告別式は、当番ブロックと死者の地区の信徒たちを中心として行われます。それを核になる経験豊かな数名の信徒と奉仕を希望する信徒のグループとがサポートします。二年前から、信徒でない方の葬儀を、カトリック典礼で頼まれて通夜と告別式を信徒の司式でしています。信徒の方でも、どうしてもこの日でなければならないのに司祭不在の場合、信徒の司式でします。その場合ミサは別の日に補えばよいでしょう。

 いままでお話してきた活動に共通に見られるのは、常に現場の必要に応えて互いによく聴き分かち合い、キリストに結ばれて人に仕える者になるということです。そのためには信徒はまず現場に身を置いて、自分を見る体験が必要でしょう。

 チーム・ワークは手段で目的ではありません。手段を支えにすると人は創造に心を閉じる傾向があります。しかしチーム・ワークによって共同体のはたらきであるシステムが生まれるのだと感じます。藤沢教会に特別のチームはありませんがシステムがあります。

これからの共同体には、社会の現状に対置する次の三つの方向が必要でしょう。

(1)スペシャリストをつくらない

(2)能力主義にならない

(3)キリストに結ばれて人に仕える者になる

これからは益々信徒が宣教も司牧も担うようになるでしょうが、宣教も司牧も、私たちがキリストに結ばれて人に仕える者になるということにおいて一つのことだろうと思います。



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合同入信志願式に参加して

 ある日突然何かに約束したく思い立ち、藤沢教会の門を叩いたのがはじまりでした。
 まさか、まさか今日のこの日を迎えることは自分自身予想もしていませんでした。この日のために準備していただいたこと、信者の皆さん、リーダーの皆さん、教会の皆様方に心から感謝いたします。
 また新たな一歩を踏み出せるよう、私を優しさと慈しみを持って見守り、導いていただいた全ての皆様方に感謝の気持ちでいっぱいです。
 与えられたこの良き日を新生の歩みとし、聖書を味わい、反省し、心に小さな光を求めよりよい旅ができるよう、努力をして約束し日々を送るつもりです。拙い私を、皆様の祈りと神様の愛と慈しみによってお導きください。(中山 記)

 昨年1月からキリスト教講座に参加する機会を得たことが長年の夢だった受洗するための第一歩でした。仏教を信じている家族のことを気にしながら、講座に通い始め「いつかはきっと洗礼を受けられる日がくるのだから、今は勉強と思っていましょう」こんな考えで笑顔の素敵な萩田様にひかれ楽しく受講していました。
 2月に入り突然私にとって嬉しい日が来たのです。それもカトリック信者の叔父の悲しい死がきっかけで、あれ程拒んでいた夫が賛成してくれたのです。びっくりしたのは私の方でした。それからの受講は益々楽しい時間になりました。そして入門式を終え、入信志願式を迎えられたのです。
 式当日は、司教様、志願者の方、代父母の方が大勢参加する中厳かに式は進められ、震える手で署名し、初めての塗油を受け緊張の連続でした。様々の思いを胸に参加されている方のお気持ちは"今私の心は喜びでいっぱい!!"、そして聖堂の中は神様の大きく広げられた腕の中に安心しきった私もいたのです。
 神様のお許しをいただき、こんな早くに洗礼を受けられるまでになったのも、ここまで導いてくださった萩田様、そして私を理解してくれた家族の皆に深く感謝いたします。(湊 記)



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教会の未来を考える会
鵠沼1区 竹田

 私達は、藤沢教会40年記念に「教会の未来を考える会」をつくりました。

 未来の教会はどのようになればいいのか、どのようなものなのが、神のみ旨にかなうものなのかを考えてきました。

 出欠自由なので、人数の多い日、少ない日もありますが10人前後の集まりです。日頃教会について考えていること、疑問に思うこと、感じていること等自由に話し合うことによって、その日読んでいる本の内容もよく理解でき、人の話をきくことでさらに実り多くなります。

 未来を考えるのには、過去、現在を知らなければなりません。2月から、百瀬文晃神父の「キリスト教の本質と展開」を読みはじめました。

 私達は「旅する教会」のどの辺を歩いているのかわかりませんが、光をめざして共に歩いていることに喜びと、感謝の気持ちを実感しています。

 興味のある方はどうぞいらしてみてください。

 第一日曜日の11時からです



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仏教とキリスト教(18) 仏教的霊性(その三)「弥陀の本願」とは
藤沢2区 兼子

『観経』が無量寿(阿弥陀)仏を観想する方法を、「小経(阿弥陀経)」が阿弥陀仏の極楽浄土と称名の功徳について説く経典ならば、『大経(上下二巻)』と呼ばれる『無量寿経』は「弥陀の本願」という浄土神学の中核を説く経典である。即ち親鸞によれば「弥陀の本願は念仏往生を説く浄土の教えの宗(眼目)であり、念仏が体(中核)」である。「弥陀の本願」の意味を初めて知った時、私は正直言ってこの身が震えるくらい感動した。何故ならこの言葉を聞くと「私が愛したようにあなたたちも互いに愛し合いなさい」と人間をその極みまで愛し尽くされたイエスの愛の深さとともに、阿弥陀仏の慈悲の途轍もない大きさにうたれるからである。弥陀の本願がなければ、たとえ我々が一心に南無阿弥陀仏と称えても、自力では浄土に往生することは出来ぬ。つまり阿弥陀仏が一切衆生を救い取るという不退転の決意をもって願をたてなければ、そもそも浄土に往生することはあり得ぬ。これが他力の他力たる所以である。では一体、「弥陀の本願」とは何か。

釈尊の従兄弟でもう25年もお傍に仕え、多聞第一と言われた阿南アーナンダはこれ迄ずっ

と釈尊の説法を聞いてきたが、今日ほど釈尊の姿やお顔が威厳をもって光り輝いて見えたことはない。「その時、釈尊は悦びに溢れていてお姿は神々しく尊顔には威厳が溢れている爾時世尊、諸根悦与、姿色清浄、光顔巍々」。それにしても「釈尊のこの輝きの源は何だろう」というのが阿南の問である。この輝きとは霊的に優れた人格が出会ったときの師弟の間に発する心からの悦びの表現であろう。釈尊は顔の輝きは何かという阿南のこの問をほめ、出世シュッセの本懐ホンガイ(なぜ仏がこの世に出現されたか)を説き起こされる。

そもそも三世(過去、現在、未来の世界)の諸仏がこの世に現れたもう所以は大悲心から一切衆生に悟りへの道を示し、洩れなく救い取りたいがためである。過去七仏という言葉があり、その意味は釈尊の前に悟りを開いた人が六人いたと言う意味であるが、七という象徴的な数字は多とか完全なと言う意味であって、実際に釈尊以前に悟りを開いた人が六人しかいないのではなくそれは限りなく遡上っていく。そこで一番最初の仏を錠光如来と言う。そこから数えて五十四番目の仏が世自在王如来である。この如来(仏)に出会って、如来の教えに心から感動し、自らもより深い悟りの道を求める決意を告げる人が法蔵ダルマーカラ(ダルマ法とアーカラ鉱脈から出来た言葉)である。彼はもとある国の王であったが出家し修行者となった。智慧と才能において並外れたこの法蔵菩薩は世自在王如来(仏)の前で感激に震えながら、誓い(本願)を立て修行して自らも仏となる過程が述べられる。法蔵は如来の足を両手で押し戴き、額を地につけ礼拝し如来の周囲を右周りに三度廻ってその徳を褒め称える。法蔵は如来に諸仏の運営される非常に多くの現存する浄土(理想国家)について教えを請う。当初、如来は自身で自己の理想的国家像を描きなさいというが、終には法蔵の決意の固いのを知り二百十億の国について述べる。法蔵はそれらの長所を選択し五刧の間(永い永い時間) 沈思黙考し、愈、その理想国家の設計図が心の中で明確になると、師に励まされて四十八項目にわたる願(小乗仏教にはない)を表明する。弥陀の本願とは言ってみれば四十八からなる「こう言う浄土にします」というマニフェストである。だから例えば第一は「無三悪趣願」ムサンマクシュノガンたとい我仏を得たらんに国に地獄、餓鬼、畜生あらば正覚をとらじというものであるが、この意味は自分個人が悟りを得て仏になる境地に達しても、もしこの世界に人間同士の醜い争いがあるならば自分だけ先に仏になることはしない。換言すれば自分の理想国家では非人間的振舞を一切なくそうという決意表明である。こういう表明が幾つも続くが興味深いのは第二十二願、「還相回向願」ゲンソウエコウガンである。たとえ…しても、菩薩になった人が再び来生し恒沙無量ゴウサムリョウ(ガンジス河の砂の数ほど多く)の衆生を救うのでなければ自分だけ先に仏にはならない。自分の力で悟りを得たと思っても実は二重三重の他力のお蔭なのである。

 勿論、この四十八願の中心は法然が「王本願」と呼んだ十八番目の願、「至心信楽願」シシンシンギョウガンである。即ち「たとい我仏をえたらんに十方の衆生、至心信楽して我が国に生ぜんと思い乃至十念せん。もし生ぜずば我正覚をとらじ。ただし五逆と誹謗正法とを除く」。たとえ自分が悟りを得て、仏になることが可能になっても、世界中の人々が心から仏を信じ極楽浄土に生まれたいと願いそう思って十回念仏を称えても、もし極楽往生しないならば私だけ正しい悟りを得る(仏陀になる) ことはしない。自らの悟りよりも利他を優先する。この世に一人でも不幸な人がいれば私は幸福にならない。何と素晴らしい阿弥陀仏の大慈悲心であろうか。説明を要するのは但し書である。「ただし五逆と誹謗正法とを除く」。五逆とは父・母を殺害、阿羅漢(聖者)を殺害、仏陀の身体を傷つける、教団の分裂を謀る罪等の重罪を言い、誹謗正法とは仏の正しい教えを否定することである。阿弥陀仏の説く一切衆生を救済せんという正しい教えそのものをも否定するならば、その者が救われないのは当然だ。しかし「観経」によれば阿弥陀仏の無限の慈悲は下品下生の凡夫の犯す五逆十悪の罪でも救う筈ではなかったか。阿闍世は赦されているし釈尊の体を傷つけた提婆達多でさえも救われる(法華経「提婆達多品」)がしかし阿弥陀仏の救い(弥陀の本願力)を信じない(謗法) 者は決して救われないのである。つまり他力とは阿弥陀仏による救済の力( 弥陀の本願の不思議)を百%信じてそれに応えることである。



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合葬の園(仮称)報告

 合葬については、「八角形にゅ−す」でお知らせいたしておりますように、聖心の布教姉妹会から土地の提供をいただけることになり、目下「みその」の土地の中に設置すべくその計画図を辻垣氏・岡村氏に依頼して聖堂の後に掲示してあるとうりであります。この計画図を参考に3月に入りましてから、皆様に合葬の園についてのご意見等をいただくためにアンケートをさせていただき、それを基にして基本設計を行いたいと思います。また基本設計が出来ました段階で皆様にご報告させていただきます。そこで今後の予定といたしまして、基本設計を皆様に了解していただいた上で、関係行政機関等への手続きを行い、さらに合葬の園の周辺住民の皆様に5月か6月頃には説明会を開き、今年中には建設許可を得て着工する予定で準備をすすめております。どうぞこれからもたくさんのご意見やご提案をいただけますようお願いいたします。



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3月の主な行事

4(金)初金ミサ・例会

13(日)初聖体・卒業感謝ミサ

20(日)受難の主日(枝の主日)

21(月)春分の日 彼岸ミサ

27(日)復活の日 幼児洗礼 9時30分ミサ中

中高生会のお知らせ

6(日)コーヒーショップ  準備を手伝える方は、8時45分に台所に来てください。

20(日)21(月)栄光の海の家で春合宿  聖堂に案内プリントを置いてあります

26(土)午後2時からセンター台所で、復活祭用の卵つくり。

27(土)復活祭 ミサ後に卵の販売します。

3月のJOC(青年会)

12(土) 全国大会の報告と「労働法全般」の勉強会

19(土)生活の見直し

    センター203号室で、夜7時〜9時、藤沢教会・片瀬教会・茅ヶ崎教会の合同です。
    中和田教会のジャック神父が協力司祭です。青年の皆さんいらしてください。



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50周年行事予定

昨年の待降節から藤沢教会の50周年が始まり、約3カ月が過ぎました。この間、活動部、ブロック、青年会、中高生会あるいは有志のグループなどでいろいろな記念行事、企画が検討され、具体化が進んでいます。これまでに50周年企画調整チームに提案された行事、企画の2月末時点における実施予定、現状をお知らせします。

(T)日程が確定している行事(日程順)

4月 16日(土) 聖コロンバン会協力者会主催感謝コンサート 14時(聖堂)
4月 24日(日) 森一弘司教による記念講演会 9時半ミサ後
5月 5日(木)

50th Anniversary Festival (50周年祭)
(スポーツ大会・ビンゴ大会 − 老若男女・国を超えて皆で楽しく)

聖園女学院グランド
10月 1日(土) 記念聖堂コンサート(アマデウス合唱団・合奏団ほか) 14時〜16時(聖堂)
11月 19日(土) 三浦朱門氏による記念講演会 14時(聖堂)
11月 20日(日) 梅村司教による記念ミサ+レセプション

(U)現在、具体化を検討中のもの(順不同)

近隣教会巡礼(第5地区の教会を巡礼し、分かち合い、祈りを通して連携、親睦を深めます)

写真展   (50年の歩みの中で、あの日、あの時、あの顔が蘇えります。3月開催を予定)
メサイア合唱(11月20日の記念ミサの日に皆で歌いましょう  − 復活祭後練習開始)
宣教部によるフォーラム
中高生キャンプ
信徒名簿(改訂版)の作成
センター内各会議室の什器備品一新を含めた環境整備

 以上が現時点での予定、検討中の行事及び企画です。各行事の詳細は今後順次明らかになっていくと思いますが、できるだけ多くの皆さんに参加していただきたく、今からご予定下さい。そのほか新しい企画提案がありましたら、どうぞ企画調整チームにお出し下さい。

 またこの50周年が実り多い1年となりますよう、皆様のご協力を重ねてお願いいたします。

(50周年企画調整チーム)



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